2022年
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「学園都市」を予言 紫波三中設立総決起大会の〝看板〟 紙に書かれた歴史の一端 稲藤の新里家保管 校舎建設場所めぐる論争も

2022-06-17

 「紫波第三中学校設立総決起大会」の〝看板〟を収めたパネルを持つ新里博徳さん

 紫波町稲藤新里の高校教諭、新里博徳さん(47)方に、「紫波第三中学校設立総決起大会」と記された〝看板〟がある。この総決起大会が開かれたのは昭和37(1962)年6月18日。当時、紫波三中は統合はしたものの、校舎は統合前の中学校舎を分けて使用しており、地域では新設する校舎の場所をめぐる論争が起きていた。〝看板〟は用紙(縦85㌢、横25㌢)に筆書きされただけのものだが、創立60周年を迎えた同中の歴史の一端をうかがわせる貴重な資料となっている。

 紫波三中は志和中と水分中が統合し、同年4月1日に開校した。

 藩政時代、志和村は八戸藩の飛び地で、水分地区は盛岡藩。地域には水争いを繰り返していた歴史があった。

 そんな事情が背景に影響してか、統合後しばらく建設場所が決まらなかった。志和の人たちは稲藤牡丹野、水分の住民は川原田地区(現在の山王海土地改良区がある付近)を推していた。

 町史によると、専門家の意見を参考に、町教委が検討した結果、川原田に決まりかけたこともあったという。

 新里さんの話では、祖父の盛さん(2013年に83歳で死去)は当時、志和地区にあった片寄小(21年3月閉校)に、教員として勤務。息子の正雄さん(71、博徳さんの父)が同小に通っていたことから、父兄の1人として総決起大会に出席した。

 稲藤牡丹野には上平沢小(現西の杜小)があったことから、盛さんは「ここに中学校を持ってきて、保育園や公民館が集まれば、一大学園都市になる」旨の発言をした。

 町教委がこれに「現職の教員が言うのはけしからん」と反発。この発言がわざわいしてか、盛さんは1964年4月に、西根町(現八幡平市)の大更小へ異動させられた(?)らしい。

 新里家に残っている〝看板〟は、片寄小のそばにあった商店の前の電信柱に貼られていたもの。

 「本来なら、紫波三中の金庫にでも保管されているべきもの」(博徳さん)だったが、紙に書かれていたため、時が経てば紛失するおそれがあると懸念した盛さんがその日のうちに持ち去り、折りたたんで、しまっていた。

 博徳さんは2016年にこれをコピーし、上平沢小へ寄贈。受け取った校長は「(看板に添えられた)『理想的教育実現の為』という言葉がいい」と話していたという。

 紫波町では現在、小学校の再編が進み、西部では西の杜小が昨年、東部では紫波東小が今年、開校した。西の杜小は紫波三中と隣り合わせで、施設隣接型小中一貫校となっている。一方の、紫波東小は紫波二中と、校舎の一部を共用する施設一体型小中一貫校。二つの小中学校は、「学園都市」を目指す同町の象徴となっている。



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