2004年 3月 7日 (日)        

■ きょうのイチ押しコラム 〈杜陵随想〉渡部精治「海ゆかば」

 先月このコーナーに掲載された拙稿「防人の歌」に、お二人の方からお手紙を頂いた。どちらの方からも同じように、前の大戦中に盛んに歌われた信時潔(のぶとききよし)作曲の「海行かば」についてのコメントであった。

 その一人は、とても好きな曲だったので、楽譜を見つけ急いで写譜をした思い出を述べ、もう一人は少年時代に経験した三部合唱の響きが、いまだに頭から離れないということで、その三声のパートを手書きして送ってくれた。

 お二人ともそれぞれの年代から想像するに、若い時代に経験された苦楽や感動を懐かしんで、とっさに筆を執られたのだろう。

 たしかにこの歌は、われわれの青少年時代に大きな精神的作用を与えた。わたしの論旨についてのご感想がなかったことは残念であったが、ご理解頂けたものとし、今回はこの「海行かば」について話題として取り上げてみたい。

 作曲者信時潔(1887〜1965)は、少年時代に賛美歌をこよなく愛し、音楽にひかれたと伝えられる。東京音楽学校でチェロを専攻し、研究科で作曲と指揮を修めた後、大正9年(1920年)から3年間ドイツに留学し、帰朝後母校の教授となって後進の指導と作曲活動をされた。

 作風は古典的和声構成に成り立つ清楚(せいそ)なもので、簡潔で飾り気の無い作風が多くの日本人の共感を呼んだ。

 作品はピアノ曲のほか、東北民謡をもとにした合唱曲や、小倉百人一首をはじめ万葉集の中の、古典的な和歌に作曲した独唱曲と合唱曲の作品がある。

 「海行かば」もその一つで昭和12年(1937)の作曲である。これが図らずも戦意向上のために国策の利用するところとなり、戦中に「君が代」よりも多く歌われたと記録されている。信時氏にとり不幸な結果となって、戦後の感情につながってしまい残念でならない。

 大戦末期に盛岡に疎開し戦後の地域に、高度な音楽活動の原点を示された澤崎定之先生が主宰する杜陵合唱研究会の第2回演奏会(昭和21年9月15日〓於盛岡国民劇場)に澤崎氏の親友でもあった信時氏を招待した。

 戦後初めて盛岡に音楽の火が灯された第1回演奏会(4月28と29・於国民劇場)から5カ月後のことであった。

 2回とも信時潔の作品である「桜花の歌」「紀の国の歌」「子等を思ふ歌」や「やまとには」など万葉集の中からの合唱を歌い、そして当時の新進気鋭の若い演奏家梶原完(ピアノ)森正(フルート)佐々木成子(メッツオ〓ソプラノ) 須賀靖和(バリトン)とそうそうたる面々の、生の音楽に浸ることができたのである。

 その日会場でお会いした信時先生は、終始穏やかな面持ちでわれわれと接し、戦直後の物質的なご事情か、よれよれのコートと古びた中折れ帽をまとわれ、質素な中にも実直なお人柄が感じられた。

 最近、スポーツの開会セレモニーなどで、「君が代」を歌手が変にもじりながら歌うのを聴くと、これが世代なのかと腹立たしくなってくる。信時潔の作品には、古代から培われた日本人の大らかな心が、音楽として余すところ無く凝縮され表現されている。

 国ぼめの儀式に舒明天皇が詠ったとされる「望国(くにみ)の歌」や山上憶良が金銀(こがねしろがね)にもまさると、子供らに対する愛情を歌ったヒューマニズムあふれる「子等を思う歌」など、「海行かば」と共にじっくり聴く時代が再び来ることを望みたい。

 (盛岡芸術協会会長) 


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