2004年 5月 4日 (火)       

■ 〈学芸〉盛岡藩の海防を紹介 室蘭陣屋の絵図面も〈写真〉

 盛岡市愛宕町の市中央公民館郷土資料展示室で、春の企画展「日本開国〜日米和親条約と盛岡藩の海防」が始まった。鎖国していた日本がペリー艦隊の来航を受け、日米和親条約を締結したのが1854(安政元)年。今から150年前のことだった。北日本の盛岡藩は、それ以前からの日本沿岸への外国船出没に伴い、自領海岸線の警備のほか、蝦夷地での北方警備を命じられ派兵している。派兵時期は前後期に分けられるが、盛岡藩が後幕領期の幕命を受けたのは1855年で、盛岡藩の出張陣屋が置かれた室蘭市では今年、150年祭など記念行事が行われる。展示は6月6日まで。

 南部家伝来資料の同館所蔵品を主体に県立博物館蔵と個人蔵の2件を加え46件の資料を展示。これら資料からは、海外旅行や赴任が当たり前の今日では想像も付かない、外国船の出没に対する緊張や警戒、注視の様子がうかがわれる。

 徳川幕府は1639(寛永16)年、ポルトガル船の来航を禁止し鎖国が成立。しかし、寛政年間(1789〜)ごろから日本沿海に外国船が出没し、現北海道の蝦夷地ではロシア船がたびたび来航した。

「エトモ御陣屋之図」
【写真】「エトモ御陣屋之図」
 1799(寛政11)年に東蝦夷地を直轄とし、1802(享和2)年に幕府は蝦夷奉行を設置。1807(文化4)年には西蝦夷地を直轄とした。

 盛岡藩は東蝦夷地が直轄となった年の10月に派兵、駐屯警備。その後、小康状態となり1821(文政4)年、撤兵する。しかし、ペリーの浦賀来航と日米和親条約締結がロシアを刺激することになり、1855年に箱館(函館)が開港すると盛岡をはじめ5藩に警備が命じられた。

 盛岡藩は箱館表山岬から東蝦夷地恵山岬、ホロベツ(室蘭)までの沿岸一帯を分割担当。翌年、箱館に元陣屋、モロラン(室蘭市陣屋町)に出張陣屋などを置いた。

 展示資料では、盛岡藩がペリー来航に対し多くの情報収集に躍起になっていたことをうかがわせる資料が目を引く。北方警備に当たった盛岡藩にとってペリー来航は外国に対するマニュアル作りにされたようだ。

 「亜美利駕船渡来日記」はペリーが再来航し上陸した横浜で和親条約を結んだときの様子を記したもの。幕府か水戸組の見聞した情報を基に作られたとみられる。

 展示で紹介しているのは、ミニSLの走行と電信機を見せる場面。日本は技術力を見せつけられた。

 「嘉永年間浦賀関係記事」はペリー艦隊の他、嘉永年間にあった対外的事件の記事を多数収録。潜水具らしいものの図写が掲載されており、ちょうど腹部の部分に穴が開き、そこから頭のてっぺんから手足の先まで体を入れる構造になっていたことが分かる。

 北方警備関係では、「エトモ図」と「エトモ御陣屋之図」は室蘭の地形図、盛岡藩が築いた陣屋の平面図。「箱館陣屋図」や「盛岡藩軍船虎丸図」などが見られ、「南部(盛岡)藩沿岸図」は領の沿岸への砲台配置(計画)が記されている。


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