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■鹿角金山繁盛に付き駿河へ言上のこと
奥州鹿角、白根、西道などの金山をば、北十左衛門不思議の縁にて見立てられ、慶長七年の春のころより掘られければ、土百目に金四・五十目より七・八十目を限り出る。
その金色厚く清し。よって不来方の下知をもって領内の山子どもを集め、日々夜々に掘りければ、このこと諸国へ風聞し、近国は申すに及ばず上は京・大坂・堺を始め商売しければ、行方も知れぬ流浪ども、あるいは浦々船頭ども当座の渡世有らざれば、かの金山へ来り山子となり掘るほどに、慶長九年の夏のころは、みよしと言う小麦あるいは火石、大豆ほどの金入り交じり、樋へもかけず直に俵に入るる。
かくのごとくの繁昌、開闢(かいびゃく)以来、日本無双にて有るべしと諸人申し合わせり。よって伏見・大坂・大津・堺そのほか所々より商人もはせ下り、金銀、絹布あるいは銭など両替し、近辺に家を建て、いろいろの売り物誠に美々しく見えにける。
町中に風呂湯屋まで二、三カ所に建ち並び、遊山町とて諸方の戯気女を呼び集め、田舎吟の小唄うたわせ遊びければ、ほどなく上方より小諷、三味線、今様の上手どもが歌舞妓女を伴って数十人下りしかば、当山日を追って繁昌し、昼夜乱舞遊曲しけり。
かくしかば、不来方の仰せをもって組の同心二十人召しつれ、警固のために来りけり。かくて利直公よりかねて金山出来のこと、伊井(井伊)兵部殿まで内々に訴え置かれども、頃日もってのほか美々しくなり、伏見・大坂の者まで下りければ、言上せねばしかるべからずとて、慶長九年の秋のころにや、駿河(家康)へ参勤せられし折り節(ふし)、このことを言上せられ、当山の運上のため黄金千枚、砂金五十斤献ぜられけり。
江戸(秀忠)へも献上あるべく所に、伊井兵部殿、御異見ありてとどまられける。駿府の御所大いに御感ありてこのたび領内において金山出来候由早速の注進神妙に候。
殊に運上金指上候えども、このたびの褒美となし下され候、いよいよ遅滞これなく候よう下知申し付けべくよし仰せ下されければ、利直公尊命の趣、謝したてまつり、言葉なくただ頭を垂れ、平伏してまかり立つ。
その後、北十左衛門はかの上方者と内談し、大津・堺・伏見・大坂所々に問屋を定め、鹿角郡米代川より舟にて秋田領能代の湊へ下げ、ここにも問屋を定めてあるいは北国回し、東国回しとて上方へ登せなし金銀を引き替えける。末世に至りてめでたかりしことどもなり。
(『祐清私記』乾)
【解説】このあたりで、北十左衛門の最期について触れている文書を紹介しよう。盛岡藩の伝説の有名人だったこともあって、取り上げられたものは「祐清私記(ゆうせいしき)」以外にも数多い。
■十左衛門引き渡し
大坂の陣のあと、家康によって伊勢国(三重県)で捕らえられた十左衛門は利直に引き渡される。『篤焉家訓(とくえんかくん)』十九之巻は元和元年(1615年)5月のこととしている。大坂城が落城して大坂夏の陣が終結したのは同年5月8日だった。
■十左衛門処刑
引き渡された十左衛門は利直によって処刑された。その処刑地、方法をめぐって、後世の文書は多彩である。いずれも、利直がさも十左衛門をにくんでいたかのような書きぶりで伝える。
『内史略(ないしりゃく)』后二には「北十左衞門信吉、南部十左衞門信有と改名。大坂籠城、又久左衛門とも、妻遠野孫三郎老臣平清水駿河女。十左衞門殺害場所は円光寺、台切引にすともいう」とある。
この文中に「台切引(だいぎりびき)」という文字が見える。大木の根を切るときに使用する大歯ののこぎりを「だいぎり」という。これから察して一種ののこぎり刑と思われる。相手に苦痛を与えながら死に至らしめる残虐刑になる。
「今の仙北町寺の辺に十左衛門を置き、一日一指ずつ切りて大清水にて実検、野田掃部勤之といいへり」(『内史略』前二)、大清水小路には御会所と称し「犯罪人決断所なり、昔は馬場小路にあり」と『盛岡砂子(もりおかすなこ)』は伝える。
「十郎左衛門ご成敗は新山川原にて遊ばされしよし」(『御当家秘書』)と書き記した文書もある。いずれも利直の思いが計られるような書きぶりである。
『盛岡砂子』小高の項などには、門(現在の盛岡市)で処刑されたとの伝承もある。ちなみに、かつてその地に刑場があったことは『盛岡砂子』の記述にみえる。
「鹿渡山(経ヶ森のこと)下南街道下北上川流る。この所昔の殺生場なり。まつたち(真立)と言う。左東の方、山の麓に供養の石碑などあり。これ祐天上人の直筆なりと、すなわち南無阿弥陀仏と彫りたり。この所において往古は決罪人を成敗せし所なりと」とある。
■処刑の墓碑が存在した
『内史略』前十一は「今、江戸街道観音寺村東の(すなわち街道の東なり)畠中(この所にて成敗ありし場所なるか)に塚あり、石碑(なす割の碑、高一間半ほど)あり。先年御巡見使下向の節、もしお尋ねもあらば、あいさつも難しきとて碑を伏せたり。畠中なれども、うがつは、瘧(おこり)病、あるいは疫病をわずらうとて、土地の者もこれにさわらず、この碑、前へ伏せたるゆえ碑面みえず」とある。
『内史略』前二には「天明年中御順見使来着」とあるから、天明8年(1788年)当時には、既に伏せられていたことが知られる。
一方、『盛岡砂子』は、小高の項で「ある人言う、先年までここに古碑あり。すなわち南部十郎左衛門墓なり。今は畑中に少しき藪ありて、その碑倒れ伏してあり。十郎左衛門は新山川原にてご成敗なりと『御当家秘書』に見えたり。ある道中記にいわく、この辺の畑中に帽子石というあり、北十郎左衛門の石塔なり。御巡見のときは、倒し置くなりとあり。また元文4年(1738)の道中記には坊主石とありて組丁裏にありという。いずれか是なるか不詳」と書き記されている。
ちなみに、明治初年から大正初年の状況を増補した山本縁の『盛岡砂子』によれば「今は畑に埋みしにや見えず」とある。
現今、仙北町を南下して小高(小鷹)を経て、かつて津志田一里塚があった付近に至る国道4号交差点の少し手前、左側にある吉武酒店脇の小道を左に入って奥まった所に、きれいに整地された場所があり、大きな供養碑がある。
十左衛門の墓と言われている石塔である。その側にある小さな石碑は、高橋清氏の談によれば、十左衛門母のものと言われているそうだ。
現在はその碑の側を国道4号が走り、北上する車窓左側に、長谷川スポーツ店前を通過してすぐの所に見ることができる。
実は、この地点もかつては小高であった。津志田一里塚と言われていた一里塚は、元禄2年の記録によれば「小高一里塚」と記載されていることからもうなずける。
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