2004年 6月 4日 (金)       

■ 〈古文書を旅する〉13 工藤利悦「主君に殺された功臣・中野修理」

 ■中野氏先祖のこと

 一、中野氏の先祖を尋ぬるに、九戸左近政実の弟なりしが、斯波(しわ)御所の婿にて、志和郡のうち高田という所を知行し、高田吉兵衛と名乗りて御所の家臣たり。

 子細ありて御所と不快し、舎兄の政実を頼って南部へ降参つかまつりたくよし申し越しければ、政実右のよし信直公へ言上すれば、信直公召し抱えべきとの御諚(おことば)にて、やがて高田は信直公へ仕えたてまつり忠節をぬきんず。

 しかるに信直思し召しさまは、吉兵衛こと、元来、志和住居者なれば、末々はなんぞして志和をも汝が手に入れたく思し召す計策のため、また南の押さえとして高田氏を不来方のうち中野館に居し置ける。

 やがて吉兵衛を改め中野修理と名乗りける。いろいろ智略を回し、志和を南部の手に入れたくと考え、岩清水右京(斯波家重臣)なども語いけるに、おおかた残り無く志和侍、南部へ降参すれば、志和減亡目の前に来らんと、諸人の取りざたなり。しかるところに信直公志和表へ出馬。ついに志和南部の手に入る。

 その後、天正十九年(一五九一年)辛卯(かのと・う)、九戸政実逆心の時、二心なく修理南部へ一味す。

 やがて九戸を誅罰(ちゅうばつ)、後に修理、動すれば信直公へ御恨を申さん有り様に見えければ、いかにも敵味方と分け互いに刃(やいば)を磨きけれども、現在の兄弟なれば既に心残るらん。

 右の志(こころざし)折々見えける。殊に修理大力にてありけるよし、常に狩り杖(つえ)を築けるに五寸回り、唐竹の中に鉄の細棒を入れて突けるよし。その已前、三戸御城石垣組候節、中野氏奉行とてありけるところに、上より大きなる石の落ちるを、修理杖にて抑えける。見る人これを見ていかに力強きとも、かようなる大きなる石は三十人にても引くべきか。まして上より落ちるを安穏に突き留めけることとて、古今の大力と取りざたしけるよし。

 信直公三戸にて冬雪の上にて追鳥など遊ばされ、お慰め候に、信直公かんじき物を召して雪の上を自由にお歩き候なり。修理は男大きく力強ければ、歩かね雪を踏禿(つぶ)しければ、信直公御覧じて、いかに御身は常に鬼のようなれども、これのごとき節はわれにはせ付け候べきかと仰せられければ、さてさておかしきをお仰せられ候。御前を手取りにいたし候は、わが心のままにて候と申しければ、さればわれに追い付き見よとのたまうてかけられたまへしが、修理持ちたる狩り杖を持ち直し召されしかんじき押しければ、心なく雪の上に倒れたまうは、修理堪忍しないと仰せられければ、既に討たんと思ひども、ひとまず堪忍し、折々修理が面顔替わること、兄左近が敵と信直公を思いしゆえか、信直公も何んぞ節を見合い、失わんと思し召しけれども左も無く暮らし立ちたまう。

 後同(前文欠落か、慶長)八年(一六〇三)のころ、森岡を居城に構い、これは浅野弾正長政公御相談にてあり。利直公永代郡山の城に住居あらんと思し召しけれども、長政公のご意見に、郡山は仙台に近し、森岡をお取り立て候らえとありければ、このごとくとみて森岡に住居ありし。

 ある時、志和郡鹿妻川屋堤の普請の時、利直公中野氏へ聞かせられけるは、いかに修理この川をはねべきかと仰せられければ、御前にておはね候はばお供申さんと申しける。利直きこしめし汝先にはねるかと仰せられける。その時修理申しけるは、ぜひ御望みに御座候はばはねてお目に懸け申すべし。さりながら臣は君より跡に立つは習いにて候えば、まずお先にと申しければ至極道理につげられたまへて、さらばわれ先きにはねべく、汝は跡よりはね候えと述べてわずかなる小川なれども、広さ二間もあるべきを向こうの岸へはねたまへて、修理はね来るを切らんと思し召し、腰の物、抜きたまへて修理は中途より抜き合いければ、利直公も叶はせたまわず。修理へわびごとしたまうとなり。

 このごとく大剛の人にて、利直公も恐ろしく思し召めされけり

 【本文】中野修理は波瀾万丈(はらんばんじょう)の人であった。九戸右京信仲の九男として生まれ、幼名を九戸弥五郎と称した。のち志和高水寺城主斯波民部大輔詮真の女婿となり、高田村を知行して高田吉兵衛(たかだ・きちひょうえ)と改名した。

 のち斯波氏との間で確執(かくしつ)があり、三戸へ帰参。斯波氏への備えとして中野館に居館し、中野修理と称した。諱(あざな=実名)を初め康実、のち直康、また直実と称している。

 中野館とは現在の盛岡八幡宮境内から松尾神社境内へかけた一帯と伝えられている。天正十六年(一五八八年)志和郡は中野修理の謀略が奏功して南部家の領有となる。これにより信直の信任を得て中野家の礎を確立した。

 子孫は八戸氏(遠野南部家)、北氏(松齋の末裔・大湯南部家)と共に重臣三家と称され、廃藩置県まで本座次席を堅持した。

 しかし、中野修理直康は九戸政実の実弟であることは厳然としており、史実に照らして本文の説の真偽は確認の術は知らないが、「目の上のたんこぶ」であったことは容易に想定されよう。あった可能性まで否定できないところに、言葉は不適切かもしれないが、面白さがある。

 【解説】中野修理は信直の配下ではあったが、武力に長けているがゆえに信直・利直は信を置かず、次から次と暗殺の手段を考えては実行し、数々の失敗を重ねた挙げ句についに殺してしまう。だが、その代償も高くついた。その場面は次週になる。

 さて今回の一文では、信直との出会いから、中野氏の常識外れの怪腕ぶり、信直の暗殺未遂までが書かれている。

 斯波氏の家臣となった中野修理こと高田吉兵衛は、子細があって斯波氏と不和になり、九戸政実を通じて信直に仕えることになる。しかし、信直は吉兵衛を信用しなかった。

 名を修理と改めた吉兵衛は、策略を巡らせて志和郡の侍たちをあらかた南部に引き入れてしまう。斯波氏の勢力が弱体化したのを見て信直がついに出馬。志和を手に入れる。つまり、修理の大きな功績があった。その後、九戸政実の乱の時も、修理は二心なく、信直に味方する。

 だが、「折々面顔替わる」男と信直は見ていた。

 代が利直に代わって盛岡に居城を移したあとの出来事がその後に続く。計略を巡らせて切ってしまおうと思う利直だったが修理は見破っていた。

 そして、現代では想像もできない出来事へと発展していく。

     ◇      ◇

 ■斯波氏の家系について

 斯波氏は滅亡した一族であるため、南部側に残された記録は何点かあるが、斯波氏の側の記録は塙保己一の『続群書類従』にあり、これ等については後日を期して紹介することとする。

 ここでは、『奥南落穂集』によって、中野修理に荷担した諸士と、斯波家に忠義を尽くした諸士を紙面の許す限り紹介することとする。

 ■忠義の臣

 岩清水肥後守義長(忠義死家老)、細川長門守(同上)、稲藤大炊助(同上)、工藤雅楽允茂道(天正十六年討死、子茂右衛門茂正仕利直二十駄)、貝志田主馬允、永井八郎延明(天正十六年討死、子理右衛門通延仕政直五十石)、貝志田与三、十日市将監光久、伝法寺右衛門、徳田掃部、煙山七郎(主君と同じく没落)、日沼隼人、見前監物、松原半十郎、堀切兵庫助、藤沢花五郎、白沢百助、室岡源兵衛、細越五左衛門、鵜飼主膳正、鱒澤刑部丞、太田主殿助秀広(子民部秀氏仕政直君三十石)、川村覚右衛門秀徳(仕松斉百五十石)、川村作内秀満(仕政直四駄二人)、矢羽々内膳正資(仕利直五十石)、日戸典膳秀勝、中村作兵衛秀峰、大川与左衛門基則(子勘之丞基房、仕利直十駄)

 ■志和主家に叛逆して中野修理康実に付いた武将、かっこ内は南部家より与えられた家禄。

 大萱生玄蕃秀重(中野の勧めにより降参、旧領六百五十石安堵)、江柄兵部少輔(子豊前秀久百石)、手代森大夫秀親(五百石)、栃内左近秀綱、簗田中務詮泰(千石)、星川左馬助、岩清水右京義教(千石)、清水善七郎、乙部治部義説(千石)、大釜薩摩政幸(五百石)、多田孫右衛門忠綱(四百石)、氏家弥右衛門義方(六十石)長岡八右衛門詮尹(公千石)、玉井庄兵衛、宮手彦右衛門英清(三百石)、飯岡弥六郎祐貫(七十石)、中島内膳安将(三百石)、小屋敷権之助義長(弐百石)、大巻隼人、山王海太郎


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