2004年 6月 5日 (土)       

■ 〈学芸〉家康拝領の茶器が発端 南部鉄器隆盛への道

 盛岡市上田字松屋敷の県立博物館で開催されているテーマ展「南部鉄器〜盛岡と水沢・美と技の伝承」で、講座「南部鉄器の歩み」が開かれ、花巻市博物館長の梅原廉さんが講演した。南部家第一の大名物は、南部利直が徳川家康から拝領した「道阿弥肩衝茶入れ」(現在は出光美術館で所蔵)。それから家康を迎えて茶会を開くなど茶がブームになる。その道具として釜が必要になってきたということが南部鉄器の背景にあった。

花巻市博物館長の梅原廉さん
【写真】花巻市博物館長の梅原廉さん

 当時、釜と言うと九州、足利、京都が著名だった。南部家は自前で用意できないかと小泉仁左衛門清行を江戸で召し抱えた。この時期は釜だけでなく、鍋や鉄砲の弾などいろいろ作られていたと考えられるという。

 1641年(寛永18年)には鈴木縫殿家綱が100石で召し抱えられた。有坂家は1390年ごろ南部氏に召し抱えられたと伝えられる。正規に石高をもらったのはかなり後になってから。4代目の茂平次吉貞は1682年に召し抱えられ、3駄2人扶持(18石)を受けた。この時代には懸仏や雲版、寺の鐘などが作られていた。

 藤田家はもともと宮守の出と言われ、2代目で盛岡に移り住んだが小泉、鈴木、有坂に対して隔たりを持たれていたと思われるという。「磨き鉄瓶」と言われる黒っぽいものは、藤田の特許のようになっているが、鈴木や小泉に相談したときにこれなら作ってもいいと言われたもの。鈴木家の文書の中では「最近藤田では鉄鉱石を使った錆(さび)釜を作っている。これは本来許されていない。これを作るのをやめろと注意した」という内容が記録されている。

 藤田家の7代目萬蔵孝保は磨き鉄瓶を精力的に制作した。鉄瓶の表面にボタンに唐獅子、タケにトラ、月にホトトギスなどを肉彫り。その厚い文様からは、その方向に努力した背景が見えると梅原さん。

 鈴木家の13代目盛久と話す機会があり、萬蔵孝保の肉彫り風の鉄瓶で苦労するところを聞いた。盛久は「自分も挑戦したが、肉彫り風は厚い部分と薄い部分の境目に割れが入りやすく大変であきらめた」と話していたという。

 「いまだに謎が解けていない」として名前の下に押す「花押」を挙げた。萬蔵孝保と小泉仁左衛門の署名の下に同じものが押されているという。「同じ作者と表示するようなものだから常識では考えられない。この両者は間柄がかなり密接だったということ以外に考えられない」と話した。

 南部鉄器は南部利視のときに南部の特産品になっていく。次の利雄のときに盛岡藩の茶道の統一を図ったため、それに合わせて煎茶道も盛んになった。南部鉄器は利視、利雄、利敬の時期に大きな盛り上がりを見せた。大正初期から明治にかけてが第2期、昭和の戦後が第3期の黄金時代だった。

 「文化の高まりというものは、統治する藩主がどのように取り組んでいるかという姿勢が影響している。目に見えない力が大きい発展の支えになることが、南部鉄器の歴史から学び取れると思う」と話していた。

 同展は7月4日まで。南部鉄器講座は6月6日と同13日。


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