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【写真】ギャラリー・ラヴィで写真展を開催中の須田一政さん。東京以外では盛岡だけ
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出合うには、さほど造作の要らないように思えるありふれた光景。しかし、今展の写真は「本当に日常なのだろうか」という疑問を浮かび上がらせる。光景は日常を装い「そのとき、そこで、そんなふうな」姿を須田さんに撮られるのを待っていたかのような錯覚すらさせる。
初詣で客が集まる神社の参道を写した1枚は手前に手相の易者がテーブルを広げている。神社参拝と運命鑑定は一見、近いようで異質なものだ。易者の後方に置かれた透明なビニール傘。日差しから雨の降った気配も降る予兆も感じられない中、写し込まれた場違いな傘が暗示となり、さざ波を立てる。
都市の中の公園と思われる空間の中央に立つ1本の松の枝に洗濯物が干されている。画面の手前右には段ボールハウスの一部。ホームレスが特別ではない現代には珍しくない光景だが、日本の光景になったこと自体が異常さが内包している。手前側のこんもりとした盛土に幼木が植えられている姿が、私空間を漂わせてくる。須田さんも整然と干された洗濯物と奇妙な幼木の収まる光景に何かを感じシャッターを押した。
夜の踏切を被写体にした1枚は、まさしく日常を伝えている。神社の参道や公園に写し込まれた違和感は見えてこない。ところが、肉眼でとらえられないものが焼き付けられている。遮断機が上がる軌跡がカメラによって明らかにされた。印画紙に感光させられた軌跡によって目撃した事の成り行きを確認することができる。
房総の光景を写し取るEDENは2001年に発表された。人のいない風景が多く、2回目のEDEN2は人と風景が混在していたという。シリーズでは夜景撮影が多く、長時間露光を数多く重ねた。「その間、およそ15分という短い時間かもしれないが、写真を撮り続けてきた自分を振り返りながら至福の時に包まれ」それがEDENとなった。
シリーズ最後とした今展は「自分の心情に一番近いものが表れた」写真群。「楽園にはビターな気分が入っている。違和感や亀裂に直面しても写真を続けているのが現在のわたし」という。
房総と作家が言わなければ多くの人が撮影地を分からない風景。須田さんは「EDENというもので住んでいる特定の場所を抽象化できるのではないかと思った」と話す。70年代の「風姿花伝」では全国の旅、町で日常の中にからめた非日常が表現された。EDENは場所の抽象化によって、感覚を共有できる楽園となった。
夜景に限らず、6×7判で長時間露光を多用した須田さん。「目で認識できないことが写っているのが不思議だ」と写真の特性を改めて感じた。「意識のないものを撮ったらどうなるのか。もっとスリリングなものがあるのではないか」。
新たな好奇心を覚えた須田さんは、1月からスチールカメラを置き、初めて手にした8ミリカメラで撮影している。ムービーとしてではなく同じような被写体が連続する一コマ一コマを静止画として見たとき何が写っているのか。「意識の狭間に興味が移行している」という。
(井上忠晴記者)
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