2004年 7月 1日 (木)       

■ 衆院議長田子一民の苦学の歩み 佐々木裕子さんが講演

 盛岡市中ノ橋通1丁目の盛岡てがみ館の前期講座「岩手の偉人のてがみを読む」第3回は6月29日、岩手古文書学会の佐々木祐子理事を講師にプラザおでって内で開かれた。取り上げた偉人は衆院議長を務めた盛岡出身の田子一民。その生涯を解説するとともに田子が書いた1955年の1通の手紙を紹介した。

 田子(1881〜1964年)は盛岡藩士だった父勘治と母カネの間に兄と2人の姉を持つ末っ子として生まれた。父は古武道の諸賞流師範で、佐々木さんは「藩政が続いていたら何不自由なく暮らしていけただろうが、明治になったため苦労した」と話した。経歴から「いいとこのおぼっちゃんと思われるがどうだろうか」と、苦労の少年期を紹介。

 田子は盛岡高等小学校に入学するが、父が翌年死亡。2年で退学せざるを得なかった。肴町の川徳呉服店に奉公し活版印刷業に転職した。しかし、そのままでは入学資格のない盛岡中学に、高等小に復学して資格を得て受験、合格した。盛岡中学では金田一京助、郷古潔らが在学した世代の中で学業は優秀だった。だが、やはり家計の問題はあり普通なら進学は難しい状況だったが、県費奨学生制度が発足したことで第二高等学校第1部に入学、東京帝大法科政治科に入学、卒業した。

 地元出身の佐藤北江を通じて朝日新聞を受験し採用が決まっていたのに待ったを掛けたのが原敬。既にほとんどの試験は終了していて文官高等試験一つを残すだけだった。試験対策などしていなかったが難関を突破して採用され、このとき政治家への道が定まった。

 佐々木さんは中学受験のときは「腸チフスにかかり、つえにすがってふらふらしながら会場に行き、体育の試験もあったがクリアして合格した。二高に入るときも学校で5人ぐらいの奨学生の中に選ばれた」と解説。二高受験で上京の際、東京市会議長星亨の暗殺事件が起きた。気が気でない田子は毎日、新聞を読むのに必死で受験勉強どころではなかった。そのような状況にありながら「自分で自分の人生を切り開いて進んでいった人。田子の生涯はドラマチックだった」と表現した。

 講座で取り上げたのは1955年1月13日付の盛岡市大清水小路の歯科医師七戸綾人にあてた手紙。七戸は盛岡中学の4年後輩。手紙は衆議院が解散し、選挙が行われようとしている時期で、選挙公報のあいさつ文に関する要件だった。

 田子の筆書きによる本状の筆跡は、拝呈などの拝が古文書でいう「転移法」のような書き方で、へんとつくりが並ばず、へんの下につくりがくるように書いている。短い文面に「申上候」が頻繁に使われている。いろいろな読み方に取れる文字も多く、佐々木さんは「読み人泣かせ」で、ほかの自筆文を合わせ読みながら読み解かなければならないと述べた。 


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