2004年 7月 8日 (木)       

■ 〈伝承の周辺〉278 盛岡真人 「もうひとつの義経伝説」

 岩手県の義経伝説といえば、北行伝説が代表的なものである。史実では源義経が文治五年(一一八九)、衣川の館で藤原泰衡の襲撃を受けて自殺した。

 ところが、そこで死なずに脱出し、海沿いに北上したとするのが北行伝説で、そのコースに当たる家などに義経一行の残した品が伝承されている。

 しかし、紫波町赤沢における義経伝説は、北行伝説と多少趣を異にする。その主なものを掲げると次の通りである。

 @義経が火石沢のあぶみ越しで騎馬訓練をし、その成果が源平合戦で発揮された(同様の伝説は山屋の弁当場にもある)。

 A判官堂(大角家)は義経の子孫である。その家には義経の残した弓と矢、天国の名刀がある。

 B義経は衣川から逃れて一時、赤沢村にいた。一子をもうけ、三年の後、釜石へ出て船で逃げた。

 これらの伝説について地元の一部の人々の間では「こんたな過疎地区で義経が暮らしたと主張するもおこがましい」とささやかれている。そこには、赤沢の義経伝説は全くの虚構世界であり、ひとかけらの歴史もないと断じる態度がうかがわれる。果たして赤沢の義経伝説も、義経を生かしてやりたいと願う人々が生み出したものなのであろうか。

 赤沢の義経伝説がおこがましかろうと、そうでなかろうと、ひとつの既成概念にとらわれて否定的態度をとるこだわりの心を除かないと、見えるものも見えなくなる。

 さて、判官堂にあった腰刀一振を鑑定した結果、義経の時代までさかのぼらないことが判明した。すなわち今から約六百年前の刀であった。刀は湿度が高くなるとサビがつきやすくなる。

 大角家に栄枯盛衰があり、明治時代にはかまど返しをしている。刀の手入れをせず、長い間、サヤに入れたままだと、研がなければならないほど、サビがつく。それを研ぐために家を離れたときにすりかえられた可能性はなきにしもあらずである。

 一方、弓は明治四十三年(一九一〇)十月八日、大角家の義経神社がH神社に合祀(ごうし)されたおりH神社に移っている。この弓は中央部分が裂けている。弦や矢はない。末弭(び)と本弭の間を直線で測ると、その長さは六尺九寸三分である。弓と刀と異なり、サビがつかないのであるから、研ぐために外に出すことはない。この弓については肉眼に頼る鑑定法だけではなく、理科学的分析による調査が望まれる。

 その結果、如上の弓が義経の時代までさかのぼることが分かると、赤沢の義経伝説はどう解すべきであろうか。

 義経は赤沢に逗留(とうりゅう)し、あぶみ越しなどで騎馬訓練を繰り返した。あぶみ越しの近くに位置する大角家の娘との間に子供ができた。

 やがて源平合戦のため、赤沢を出た。この伝承に二次的な北行伝説が付着され、風変わりな「北行伝説」とされたのではあるまいか。


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