2004年 7月 9日 (金)       

■ 〈古文書を旅する〉18 工藤利悦 「利直は南宗坊の化身」

 ■南部利直の法号南宗院殿こと

 一、南部利直公、武勇誠に畏敷(おそろしき)御大将なり。さて利直公、お寝姿をひそかに見たてまつれば、御形(かたち)蛇体に見えさせたまうとなり。

 ある時、利直公の御夢に南宗坊見へさせたまうは、われは蛇体にて候が、過ぐるころ、蛇体の苦痛を逃れ、貴公に生まれ替わり候と見ると思し召し、御夢は覚めにけり。

 そのよしを翌日、御次衆にお物語り候よし。いずれも実にもと思う人多くこれあり。しかるに、寛永九年の春、ご参観(参勤)にて江府(江戸)へお登り、同年八月十八日、江戸にてご逝去。

 急ぎお飛脚下り、同二十六日夜、福岡へ到着。やがて東禅寺大英和尚へ仰せ遣わされ、御牌名を調(ととのい)けり、南宗院殿と申したてまつる。その後江戸金地院よりお調べなされ候、御牌名も南宗院と書けり。

 さて御話ことわらずなされ候、南宗坊の御生まれ替わり誠に明白なり。金地院も東禅寺も右の子細は夢にも知らぬとも、両方百里を隔てしにて一ツに書きしは不思義なれ。

 やがて九月初にご尊骸下り、三戸にてご葬礼あり。伝えにいわく、利直公ご葬礼の時、にわかに曇り、大雨・稲妻・雷電、はなはだしければ、お供の人々も、いずれ色を失いけるとぞ。                『祐清私記』

 ■南部利直は十和田湖の主「南宗坊」の化身

 【解説】南部利直は寛永九年(一六三二年)八月十八日江戸で死去。南宗院殿四品前信州月渓晴光大居士と、おくりなされた。享年五十三歳。法号「南宗院殿」は、十和田湖の伝説に登場する南宗坊の化身であるところからおくりなされたという説話である。利直が亡くなった際、盛岡の東禅寺と江戸の金地院が同じ法号をつけたと記している。

 四品は従四位下、信州は信濃守であったことを意味する。岩館左京殉死、三戸萬年山聖寿寺に葬送。現在盛岡の東禅寺にある墓碑は、元禄時代に移したと伝えられている。青森県南部町の三光寺境内にある御霊屋は現在青森県の文化財に指定されている。

 南宗坊は、十和田湖で八の太郎と雄飛を決した怪僧として著名。南部信直が信心した三戸斗賀(名川町斗賀)大権現の境内で生まれ、七崎の永福寺(三戸・盛岡永福寺の前身、現八戸市字上永福寺地内普賢院)で修行したと伝えられている。

 盛岡城の鬼門を鎮護する祈願所永福寺と関連づけ、盛岡は利直が守護しているとする説話であろうか。

 そもそも、築城家は四神相応の地相を見立て築城する。盛岡城には、南方に朱雀が住む窪地(中津川)があり。西に白虎が住む大道(秋田への街道)がある。北に玄武が住む丘陵(高松の池周辺の丘陵を神庭山という)もある。東に青龍が住む清流があることを良しとするのだが、この地に十和田湖を仮想して青龍権現(祭神は日本武尊と南宗坊)を永福寺境内に祀(まつ)っている。

 従って盛岡は、神に守られる条件、四神が住む地を兼ね備えた土地というのである。ちなみに、青龍権現は南宗坊・利直なのである。

 盛岡はこのほか四鎮山があり、その神々に鎮護されているとも考えられている。北東(将門)には岩鷲山大権現がおわす岩鷲山(別当寺は大勝寺)、北には姫神大権現がおわす姫神山(同筑波寺西福院)、南東(生門)には早池峰大権現のおわす早池峰山(同妙泉寺・現盛岡八幡宮境内に宿寺があった)、南西(病門、裏鬼門ともいう)には新山大権現がおわす新山(同新山寺、後永福寺が兼ねる)の四山であるという。

 利直は、慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦のとき、東軍(徳川家康)、西軍(石田三成ら)いずれに付くか苦慮したことを『聞老遺事』は伝えている。

 大方は加賀金沢・前田家のかかわりで西軍に加担するとみていた。最上(山形県山形市付近)へ出陣した利直に対し、伊達家族臣留守上野政景(のち水沢邑主伊達家)へあてた政宗書状には、「前の敵よりも、脇を堅めよ」と指示していることなどからも読みとれる。

 しかし、利直に対する徳川家康・秀忠の信頼は絶大であった。将軍秀忠から家康愛用の鉄砲を拝領した話は有名である。そのことにとどまらない。

 『徳川実紀』台徳院殿御実紀には、計り知れない聡明な人物像が伝えられている。慶長十三年(一六〇八年)江戸城内において浄土宗の僧侶と、法華宗の僧侶との間で宗論が行われ、利直はその時並みいる諸侯をぬきんで、立会人の一人を勤めていたことが記録されている。

 「江戸城において、浄土宗増上寺存應の弟子廓山と、法華宗僧日経と宗論せしめらる、高野山遍照光院頼慶は判者たり、増上寺存應(三人略)等は召によりて出座す、大蓮寺了的・大長守源栄執筆は光厳寺の専想なり。聴衆は眞言宗は大山寺八大坊実雄・大磯地福寺宥誉・天台は川越仙浪喜多院運海(二人略)。禅宗は富田大中寺良雄(三人略)。武家には上総介忠輝朝臣(将軍秀忠の弟)をはじめ、松平(蒲生)飛騨守秀行、松平(伊達)陸奥守政宗、浅野紀伊守幸長・南部信濃守利直(以上外様大名)。土井大炊頭利勝・安藤対馬守重信(ほか七人略・以上譜代大名)列座し、本多上野介正純は奉行たり。大長寺源栄これにそふ、米津勘兵衞田政。土屋権右衞門重成等警衛す。日経はその弟子(ほか五人略)を従へ出る。然るに宗論に及んで日経病を称し詞を出さゞれば、日経はじめ六僧ともに法衣を奪ひさらる。この後、日経等は処々にてこの宗論に大に勝たりと偽り。俗人をあざむきてやまざりしかば、翌年正月七日搦とられ。京都にのぽせ洛中を引わたし。刑に処せられしとぞ(慶長十三年十一月十五日条)」。

 単に信頼だけでは務まるはずもない、宗論立合人として対応できる学識の人物であったことをうかがい知るに十分である。

 八戸藩主南部家の菩提寺である臨済宗妙心寺派月渓山南宗寺(八戸市長者一丁目)は、利直の末子直房によって創建されたが、父利直の法名にちなみ寺号が命名されたと伝えられている。


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