2004年 8月 2日 (月)        

■ 研究65年の集大成 紫波町の村谷さんが先祖の資料集出版

 紫波町日詰の村谷喜一郎さん(92)がライフワークとして取り組んできた研究が、「村谷嘉右衛門家治家史料集」となってこのほどついに出版された。村谷さんは大豪商小野組の使用人の子孫。「使用人の目から見た小野組についてまとめたい」と思い立ち、研究に取り組み始めたが、何度も壁にぶつかったという。かかった年月は実に65年。半世紀をゆうに超える時間を研究にささげてきた。「わたしの知識は財産。それを子孫に伝えることができる」と、村谷さんは大事を成し遂げた今、満足そうに話している。

ライフワークの村谷嘉右衛門家治家史料集を書き上げた村谷喜一郎さん
【写真】ライフワークの村谷嘉右衛門家治家史料集を書き上げた村谷喜一郎さん

 村谷さんの先祖は近江の高島郡(現滋賀県高島町)の大工・村谷次郎左エ門。村谷家は代々城造りをする家系だった。姉川の合戦で浅井氏が織田信長に敗れ、浅井方の藤堂高虎の供をして兄が四国に国替えしたことから次郎左エ門が当主となった。7代目嘉右エ門家治の2男彦兵エ島好が小野組に奉公した南部での初代。家系図は複雑に分かれているが村谷さんは初代の次男伝助(音羽屋)から数えて10代目の子孫となる。

 研究の発端は昭和14年(1939年)、旧日本軍から物資を保管する倉庫にするため村谷さんの土蔵を空けるように言われ、家に代々伝わる古文書を調べ始めてからだった。次第に古文書に興味を持つようになった。

 昭和31年7月に本格的な調査をしようと滋賀県高島町に出向いた。ところが町では小野家のことを知る人がなく、高島郡誌にも記載がない。調査が軌道に乗り始めたのは45年に「小野組の研究」(宮本又次著)が出版されてからだった。小野家や村谷宗家、分家の調査が進んだ。

 史料集は3部構成になっている。「音羽編」では初代から3代までの紹介、書簡、代々仕えた主人、江戸時代の幕府とのかかわりなどについて紹介する。「南部編」では商家としての村谷家について紹介する。「昭和断章」では戦後の村谷さん個人の話を紹介する。

 南部初代の村谷彦兵エ島好が奉公したのは日詰郡山駅の井筒屋権右衛家(郡印)だった。同家のほか盛岡城下の井筒屋清助家(紺印)、志和(紫波町上平沢)の近江屋権兵衛家(志印)に奉公している子孫があり、村谷さんは3家を本店主人とし、初代を一次分家、以下第二次分家6店、第3次分家5店、第4次分家2店に分類し、奉公先も一目で分かるようにした。

 「奉公し支配人になれば主人が資本投下して分家になるわけですが、主人と使用人の関係は変わらない。分家する際に受け取る退職金も勘定目録にどのように使ったか記載し本家に毎年やらなければならない。本家は京都にいて勘定目録を見て支店に指示を出すわけです」。

 これを各分家で続けることでピラミッドが構築され、頂点にある本家は強力な支配権を持ち、巨大な金を扱う大豪商になっていった。

 本では本家と分家店との支配関係、組織の仕組みを詳細に分析している。天保9年に本家へ提出した勘定目録を貸借対照表に分け、分析結果の紹介もしている。

 村谷さんが苦労して作成した家系図、調査の過程で発見したさまざまな史料が掲載されている。

 村谷さんは「戦後、衣食殊に住の生活環境が変わって昔のものが消滅していくのを惜しんで自身のルーツにまつわる近江高島商人の史料をまとめたかった。これをわたしの生きた証に将来の研究の志す方々に一括のつづりにしておいたらと思った。併せて弟たちへの兄からのプレゼントにと出版を思い立った。記憶は1代、記録は末代と言われますから」と話す。

 村谷嘉右衛門家治家史料集はA4判415ページ、非売品だが購入希望が多い場合は増刷する考え。問い合わせは有限会社博光出版(盛岡市みたけ5の8の43、電話019−641−0671、ファクス019−641−7474)まで。


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