2004年 8月 12日 (木)        

■ 〈伝承の周辺〉287 盛岡真人 「タヌキとスイカ」

 昭和47(1972)年9月18日午前1時ごろ、一関市の東北日本電気会社の工場入り口をウロウロしていたタヌキが、守衛にバレーボールのネットをかぶせられて捕まった。その会社の独身寮(北星寮)の玄関脇で飼われるようになったタヌキの好物は牛乳であった。主食は寮食堂残飯である。次第にぜいたくになってソーセージや天ぷら、カツを選んで食べるようになった。

 野生のタヌキはトウモロコシ、メロン、スイカに目がない。面白いことにメロンやミカンなどをば、人間と同じように皮を残して食べる。スイカも同様である。

 紫波町M地区では、まだ明るいうちからタヌキが動き出す。アスファルト道路でタヌキとばったり出合っても、タヌキは取り立てて驚く様子もない。

 スイカ畑に入ったタヌキは、タヌ手チョップで中の熟れ具合を確かめる。このとき、タヌキのつめ跡がスイカに刻まれるから売り物にならなくなる。タヌキは熟れたスイカを持ち去る。それにつけても、打診によって正確にスイカの熟れ具合を確かめるタヌキのテクニックには脱帽するほかない。

 スイカは畑からかなり離れた山中まで持ち去る。タヌキはネコよりは体が大きいものの、小動物の範疇(はんちゅう)になろう。

 佐藤垢石の『天狗談』(華頂書房)には、体重が3貫目余りのタヌキが捕らえられるくだりがある。榛名山の東北麓群馬郡金島村の理髪店の主人は、村近くの深林の大木の洞穴の中で大ダヌキを捕らえた。全身の毛が針のように突っ立っていて、目の縁の隈取りも黒々として、瞳の光も鋭い由である。けれども、たやすく生け捕りにされたのであるから、図体が大きいだけのタヌキだったかもしれない。

 結局、タヌキがスイカを畑から持ち去るときは、転がしていくものとみられる。そうして岩角などの手ごろな突起を利用し、きれいに割ってしまう。果肉は手でちぎるようにして食べる。

 シャリシャリした歯触りの上、優れた栄養成分のあるスイカを、皆タヌキに食べられてはたまらない。そこで、登場する撃退法がはったり作戦である。

 夜、スイカ畑に隠れてタヌキの到来を待つ。タヌキが来たら、その耳元で大声を出す。それは「こら!」でも「こりゃあ!」でも良い。すると、タヌキは驚いて後ろ脚で立つ。すかさず、タヌキの尻尾をつかんでぷるるんぷるるんと振り回して投げ捨てる。このとき、尻尾ではなく頭や胴をつかむと手をかまれる。タヌキのかむ力は、骨まで穴が開くほど強く、救急車の世話になること必定である。

 はったり作戦は、蚊に刺されつつ、ひたすらタヌキを待ち続ける忍耐力が求められる。それも抵抗があるとなると、熟れないスイカを食べることになる。

 タヌキの食い残したスイカの皮やその白い部分は漬物に使うことが可能である。スイカの漬物は高度経済成長期の前半ごろまで農山村で結構見られた。添加物だらけの毒々しい漬物よりましである。


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