2004年 9月 3日 (金)        

■  「宝徳寺物語」を発刊 玉山村の伊五沢さん

 玉山村の伊五沢富雄さんはこのほど、「宝徳寺物語」(編集・ねんりん舎、出版・熊谷印刷)=写真=を発刊した。宝徳寺は同村(旧渋民村)にあり、石川啄木ゆかりの寺。「セロクド」の屋号で呼ばれる伊五沢家は宝徳寺の「出入り」を務め、祖先は啄木とも交流があった。

 宝徳寺は1658(万治元)年創建という歴史を持つ。本書では啄木の父一禎が本堂を建立した1890(明治23)年からの宝徳寺に焦点を当てつづっている。

 啄木にとって宝徳寺生活の17年間は何であったか。筆者はペンネーム啄木の誕生を第一にあげる。

 「一禎の住職罷免、啄木自身の文学的挫折、渋民小学校ストライキ、教員免職等にある中で、『啄木』と宣言したのが、宝徳寺内の一室であったことに尽きるのではないか」、「その後の文学者、思想家の『啄木』は宝徳寺で誕生した」と言い切る。

 一禎罷免後、住職は中村義寛を経て再び遊座家になる。1914(大正3)年、遊座芳荀が住職に就き、5年後、芳夫が住職になった。啄木は明治の終わりに死去している。

 この親子の時代で紹介しているエピソードが興味深い。啄木の歌碑第1号「やはらかに…」が22年、村内の北上川河畔に建立された。石は「姫神山麓沢目部落の内藤イツの山から運び出された」という。4キロほど離れた場所に運ぶため、巨大なそりが造られ、200人もの村民が3日がかりの作業だったという。

 石工は石が巨大すぎたため厚さを半分に割って加工した。割られた石を基に製造、建立されたが、「半分にされた石はその近辺に打ち棄てられていた」。処分に困った石工に相談された芳荀和尚は自ら筆をふるい、宝徳寺の境内に「三界萬霊塔」として建てた。

 啄木1号歌碑と萬霊塔は「一卵性双生児なのである」と筆者は言う。

 一禎の宝徳寺住職就任と前住職遊座家の境遇を引き出して言われることは少なくない。筆者は芳荀和尚の行為から「幼い時に石川家によって宝徳寺を追われた遊座家だったが、別に恨みは無く、むしろ啄木を顕彰しようというぐらいの寛容の心さえ読みとれる」としている。

 伊五沢家では富雄さんの4代前、丑松さんが小樽の啄木から07年12月23日付の手紙をもらっている。長さ420センチ、幅20センチの巻紙に163行にわたって書かれている長文だ。

 本書ではこの手紙を紹介。伊五沢家と宝徳寺、啄木との交わりに章を設けている。啄木の小説「道」を掲載しているのは、啄木が代用教員として経験したことがモチーフになり、当時の日戸小の校長が丑松だったことによる。

 定価1500円。


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