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■左衛門尉高信領内静謐(せいひつ)並びに出馬平定のこと
かくて糠部左衛門尉高信(ぬかのぶ・さえもんのじょう・たかのぶ)は御舎兄右馬之亮安信(うまのすけ・やすのぶ)の遣命に任せ、晴政公(安信公の御子にて当家二十四代なり)を守り立て、既に領内静謐(せいひつ)に治められ、諸人の帰服日を追って長ず。
なかんずく八戸薩摩守義(政)栄(はちのへ・さつまのかみ・まさよし)・九戸修理亮政実(くのへ・しゅうりのすけ・まさざね=後左近将監というなり)ら、家中随一の大身にて、いずれも居城を堅固にして、かつて自立の志をさしむ。
しかれども高信は智諜兼備の大将にて、晴政公の補任であられければ、かえって安信公の御代より領内一統にぞ見えし。かねてより高信は田子の館に居城せられけるが、そのころ軍評定人で閉伊郡侍の舟越修理・金浜円齊(えんさい)とて両人の隠居あり。武功の老武者なれば高信ねんごろに召し仕えられぬ。
ある時、右両人を側近くに招き、鼎足(ていそく)のごとく(三人で)座せしめ、酌(しゃく)をもうけ終夜(夜通し)語られけるは、わが安信の孤を托(ゆだぬ)り領内の危を踏直し、今既に異儀に及ぶ者なく一統に治(おさまり)ぬ、しかればこの上は隣境へ馬を向いて一当塩を付け(注・辛い目を見せること)て見せん。まず隣境というは津軽・鹿角・岩手に候。これ皆一度は当家の領内なれども興廃の変にしたがい、あるいは服しあるいはそむく。いま我れいずれを先に取らんとのたまう。
時に金浜円斎申し上げるは、津軽は豊じょうの国、その上御当家へ数代相そむく。いま新たに干戈(かんか=戦争)を取り結びたもうこと大事に候。その変を見て緩やかにお攻め取りしかるべく候。鹿角はわれわれ持ちの寄り合い(注=諸豪の寄合)勢に候らえども、これ豊じょうの地として、その城は堅固に兵多く、武辺ことに手馴れ候らえば、ただ一方より攻め入り候ことは雌雄を分け難けんが、岩手はわれわれ持ちの地侍の地にして、居城も堅固ならずに候らえば、まず岩手にお手入れ遊ばされ、手初めよくば、その勢いに乗りて脇々をもお責めしかるべく候こと。初めの切は味方は逸し隣国は聞き懼(おそれ)仕るべく候間、まず安き方をお取しかるべくと申せば、舟越修理ももっともしかるべくことにこそ、その上干戈(かんか)をもって敵を討つは常のこと、智謀をもって敵をひしぐこと良策とすべし。
幸、不来方福士伊勢を語らい、あるいは一方井刑部左衛門にしかじかのこと申しければ、高信公喜悦ありて両人の軍議張り良くも及びまし。諸方打ち捨て先ず岩手郡を責め取るべし。もっともゆくゆくは津軽・鹿角も取るべけれども、ただ今そのことを沙汰してはかえって敵にて備えさせん。先々密謀論ずべからずとて岩手へ手入れの評定よりほか他事なかりけり。『祐清私記』
【解説】糠部左衛門尉高信とは、石川左衛門尉とも称し、南部家中興の祖二十六代信直の実父である。そのこともあってか、『祐清私記』には高信を顕彰する記録が数多く掲載されている。「左衛門尉高信領内静謐並出馬平定之事」はその第一話である。
南部安信(二十三代)が死去し、高信は幼少の甥・晴政のために後見役となった。自立を図ろうとする八戸氏・九戸氏をよく抑えて善政を行った。さらに、高信はここに来て津軽・鹿角・岩手への勢力拡張を図るために、側近である舟越修理・金浜円齊と密議。
その手始めに岩手郡から侵攻することを計画し、不来方城主福士伊勢や一方井城主一方井刑部左衛門らと接触した。以上がその概要である。
ちなみに『南部史要』は『祐清私記』の説を受けたものだが、出典不明ながら天文九年(一五四〇年)と時期を特定し「高信の献策により、その臣舟越修理・金浜円齊をして岩手郡を巡検せしむ」としている。
当然その後に起きたであろう鹿角あるいは津軽攻めの時期について、『祐清私記』の「南部信直様の事」の項には元亀三年(一五七二年)と見える。『聞老遺事』も年号知らずとしながらも、かつ否定しつつ『津軽触聞記』に元亀三年説があることを伝えている。
■高信はだれの子か
これまでも高信はだれの子かについて疑問があることを紹介してきた。「左衛門尉高信領内静謐並出馬平定之事」は、『南部史要』によって広く知られている南部政康(二十二代)次男、つまり安信(二十三代)の舎弟であるとする説。
『参考諸家系図』も高信の略歴を「政康公二男、糠部帯刀左衛門、石川左衛門尉、三戸城に生れる、長じて巍伎雄才(ぎきゆうさい)あり、田子城(青森県田子町)に居る。のち糠部村(所在不明)に采地を賜う、天文中(一五三二〜五五)、安信公の命によって晴政公を補佐す。四方の不服を平定す、功業甚だ高し、のち津軽の叛賊を討ちてこれを取る。晴政公公子(高信)を津軽三郡(鼻和・平賀・田舎三郡)に封ず。公子石川郡(平賀郡)に石川城を築きてこれに居る。これにおいて石川氏を称す、天正九年(一五八一)二月十一日石川城に卒す」としている。
これに対して寛永十八年に幕府へ上呈した『寛永諸家系図伝』所収の南部系図は、安信次男で晴政の弟としている。史料の信ぴょう性から判断するなら、後者の説が至当であると考える。
仮に視点を変えて、論拠を知らないが『南部史要』説によって検証してみよう。南部政康は永正四年(一五〇七年)四十七歳で死去。その長男安信は大永五年(一五二五年)に三十三歳で死去とある。
これによって安信は父政康三十三歳の時の子となる。また安信の子晴政は天正十年(一五八二年)六十六歳で死去とあるから、父安信二十五歳の子と知られる。一方、信直は慶長四年(一五九五年)の死去。享年五十四歳とあるから、逆算すれば天文十五年(一五四六年)の誕生である。
信直の父高信の享年は不明であるが、安信の弟説を想定した場合、信直は伯父安信五十四歳の時の誕生。高信には弟がたくさんおり、父政康の没年を勘考すれば、高信は五十歳前後と知られる。同様に高信が晴政の弟と仮定するならば、信直は叔父晴政三十歳の時の誕生。父高信二十六、七歳の子と想定されよう。
『祐清私記』の「岩手の諸士三戸伺公の事」の項では、信直の生母一方井氏は十八歳、「高信公いつしか人しれぬ恋慕の枕重なりてついに」と、信直出生に至る経過を伝えている。
これらの視点からうかがっても、高信は晴政の弟とする説の方に至当性が認められのではなかろうか。
■高信の没年に関する疑問
『参考諸家系図』によれば、高信の没年を、天正九年(一五八一)と伝えている。一方、津軽側の記録である『永禄日記』によれば、元亀二年(一五七一年)五月五日の条に「同夜、大浦殿(津軽為信)五百騎ほどにて石川大淵ヶ崎へ押し寄せ、大膳殿(石川高信)を落とし云々」とある。
また『津軽一統志』巻第二は「当国平賀郡石川大佛ヶ鼻に住居せる南部大膳大夫源高信という人あり、(中略)舎兄安信子なきにより、すなわた高信の長子信直、信濃守をもって家の督たらしむ」とし、元亀二年五月五日津軽為信の夜討ちによって高信が討ち死にしたことを記録している。
『岩手県史』は津軽家の偽作と一蹴しているが、その後、天正九年津軽の統一をはかる為信は、波岡城に波岡氏を攻め滅ぼしたものの、その姻戚にある秋田安東氏によって報復を受けて攻め込まれ、九死に一生を得ていることをなどを勘考するならば、天正九年は取りも直さず高信の死ではなく、波岡氏の滅亡の年であった。津軽側の記録に史実があるようにうかがわれる。
このことから発展し、高信にかかわる元亀二年以降の事件は、事件そのものは仮に事実としても、年代の特定については疑問視して対応する必要があろう。
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