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■王子製紙豊原工場跡
ユジノサハリンスク市外に戻って、町の東側にあるチェーホフ山(旧名・鈴谷岳)の登山口に当たる「旭ヶ丘」を目指し、途中の「旧樺太神社」跡に行った。神社は既になく現在は漁業会社の寮や個人の邸宅になっているとのこと。
並木の赤松や石段のみが残り、神殿跡のわき水の出る小高い平地の、さらに上方のがけの上に、コンクリート製の高倉作りの「宝物殿」が残っていた。
雨のために旭ヶ丘までの山道に入るのは無理。急きょ、北海道から参加の斉藤征義さんの提案で「王子製紙豊原工場跡」に向かう。町の中にあり、現在は農機具の修理工場になっていた。斉藤さんの説明では、明治40年に帯広の工場の廃材を使って、苫小牧工場と全く同じ設計で作られたという。
賢治は、サハリンで煙突や化学薬塔に電灯をともして夜を徹して操業するこの豊原工場を見た。さらに翌年、花巻農学校修学旅行で苫小牧を訪れ、苫小牧工場も見ている。この印象は彼の詩作品に表れているという。
■日本軍上陸地点メレイ(女麗)の海岸
午後から雨がすっかり晴れた。コルサコフから東へ数キロの海岸、メレイ(旧女麗)に行った。ここは、賢治が訪れたわけではないがぜひ見ておきたい場所であった。
日ロ戦争末期の1905年(明治38年)7月に、日本の第15師団(原口兼済中将・1万4000人)の一部が上陸遠征した場所である。
一般に日本人は、日露戦争に勝利した日本は「ポーツマス条約の交渉で(話し合いで)サハリン南半分が割譲された」と理解している。しかし実際には、当時人口3万のサハリンに、1万4000人もの日本の軍隊が50艘(そう)余りの軍艦と輸送船で遠征し、このメレイ上陸後コルサコフを占領し、さらに北部のアレクサンドロフスクにも上陸した。
この間1カ月ほどの戦争があった。日本は軍事占領した後に、交渉に臨んだのである。当時サハリンは1875年(明治8年)に樺太千島交換条約が結ばれロシア領となっていた。この条約では先住民は自らの権利が認められず、「日本人」か「ロシア人」になって、それぞれの領地に移り住むことが強制された(「同条約付録」)。日本、ロシア、先住民の不幸な歴史がしのばれる。
アニワ湾に面して、広大な石浜の海岸はどこまでも平坦で上陸作戦の適地である。樺太時代に立てられた「遠征軍上陸記念碑」は、「忠霊塔」とともに横倒しになっていた。コケむした台座の周りには、ヤナギランがいっぱい咲いていた。
(つづく)
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