2004年 10月 8日 (金)        

■  〈古文書を旅する〉31 工藤利悦 「晴政との争いを避けたかった高信

 ■高信公岩手郡攻撃(つづき)

 一、ある時、糠部左衛門尉高信は、御嫡九郎信直・近臣舟越修理・金濱円齋を近づけ語られけるは、われただいままで安信の遺命に任せ、数年当家の軍将を司り、諸士を指揮して文武の成敗を執り行いて安信の遺儀を全うし、一郡も近国へ奪われず、かえって岩手・鹿角・北閉伊を切り取り領知を拡げ、晴政へ渡す、誠に喜こばしきことならずや。

 晴信も壮年なれば、われは当年陣代を辞し、領知の成敗を晴政へ渡し、われは自力をもって隣国の内を切り取り領知せんと思うなり、されどもわが兵少く、兵器調わず、かつて金銭兵粮乏しければ、この事すなわち(輙)すべくとも思われず、この儀おのおの随分思慮を回して、一つ精励たまわれと申されければ、両人大いに驚き、これはいかになさるご所存かな、既に国中の諸民、殿の御事をこそ安信の遺跡と存ずれども、何も帰伏仕り国守と仰ぎたてまつり、されば隣国領主たちども、たまさかの書通にも南部左衛門尉殿あるいは南部帯刀左衛門衛殿とこそ書き送り候に、かかる折節陣代を辞し、領知を晴政へ渡されなば、岩手・鹿角もたちまちそむき、糠部の本領も我々持に成り候らわん。しかる時はただいままでのご軍功、水に成り申すべく、われわれ愚案を廻すに、今の領知を二ツに裂きて殿と晴政の所領としたまうか、さなくば糠部の本領は晴政へ渡し、岩手・鹿角を殿の領知となしたまうか、または直きに安信の遺領を継ぎたもうて殿の家督に晴政を立てたもうか。これらのことこそ然るべく存じ候に、なんぞや軍将を辞して領知を残らず晴政へ与えたまわんこと、信直の御行衞をば何とか思し召され候故と申しければ、高信聞きたまい、それは当然の利、誰も知る処なり、しかる時は後には晴政と、われと争論の基なり。たとえわれ露命極まるとも、後には信直が身に害を招くの根元なり。われ深き所存あり(この時信直公も高信公の仰せを御聞き、不興顔に見えたもうに付き、高信公かさねて信直を制して、領知は何国にもたくさん在るものを、何ぞ南部のみ在らん、この地に請いしたいなば、かえって汝の身の上、しかり申さずと言う)。われにこの事は任せべくと申されければ、両人一同に申しけるは、われわれ一且見得たる処の了簡にて、誠に末々害を思い当たり申さず、たとえ殿の左様に御願い候ども、晴政争いて許容あるべく、定めて領知裂きて進んぜられべく候なり。さて隣国の内は何方へか御手入と申せば、されば先年志和にせんと思いしに、斯波勢中々手ごわく数年雌雄分かれざる折節、稗貫大和守の扱いに付き、両家和平しおわんぬ、しかればその外にはわれ望みの国は隣国には津軽より外よろしき国もあらず候。幸い、津軽は昨今新の領主なれば領内一統せざる。その内に打ち入り攻め取るべしと思うなり。ついてはその武具・兵粮の費(ついえ)まで晴政の辛労なきように随分おのおの心慮を砕き用意せられよと申されければ、円齋申す様は軍兵武具は晴政より借りたまいて、ただいま預りたまう人々にてしかるべくと、兵粮・金銭のことは馬川之助右衞門へお頼り候わばいかほども進ぜべく候。何條御気遣い候まじ。さりながら津軽領主西野・相川の両人は金銭をもって国中を手に入れ、土民百姓まで帰伏仕り候えば、その火の手へ差し置き合戦したまわばゆゆしき大事なり。暫く見合わせたまうべく両雄は争う習いあり。必ず変異出来らん。その時急に乗り入れたまわば一挙に功を成したまわん。そのうちは必ずしも色に出したまうなと申しければ、高信頭をうなずき、その事しかるべくとて時節を待つべしとぞ。(祐清私記坤)

 【解説】この項の注目点は、高信とそれを取り巻く側近の晴政に対する考え方が具体的に述べられていることである。

 一、高信の晴政に対する忠誠を伝えている一方、高信を中心に側近らの忌憚(きたん)のない意見が記されている。

 集約すれば、(一)安信の家督を世子晴政が継いではいるものの、実は、領民は高信を国主と仰いでいる。従って、「隣国領主達も、書簡文言では南部左衛門尉殿あるいは南部帯刀左衛門尉殿」と尊称している。

 (二)「領知を晴政へ渡されなば、岩手・鹿角もたちまち叛き、糠部の本領も我々持に成り候らわん」。我々持ちになるとは、晴政には統治能力はなく、諸豪族が自立して寄り合う土地になってしまうという意味だろうか。以上は晴政は名目の国主に過ぎないという前段の論。

 ただし、「寛永諸家系図伝」では「高信は安信二男で晴政の弟」とある。

 その上で、嫡子信直の将来を見据え示された意見は@領知を高信領と晴政領に分割する案。A糠部の本領は晴政へ渡し、今後において岩手・鹿角等を切り取り、拡張した隣国を高信の領知とする案。B安信の遺領を高信が継ぐ。その後晴政に家督をゆずる案などであった。高信の基本姿勢は、晴政との争乱を避け、晴政より軍兵武具を借り、進んで隣国をかすめ取り、その地に分立する。

 その地は津軽を想定していた。つまりAであったとしている。しかし、「軍将を辞して領知を残らず晴政へ與へたまわん事、信直の御行衞をば何と思し召され候や」。

 高信の側近が危ぐした信直の将来。その危ぐが高信の没後に現実となり、高信の弟・浅水館主南長義等が甥信直のために行動を起こす結果を招来した。これが、晴政と戦闘状態(『八戸南部家文書』晴政書状、八戸家伝記など)になる端緒と考えられないだろうか。

 【註】三戸城主南部晴政は信直を殺害しようとした。これに対して北信愛(剣吉館主・信直の叔父である南長義女婿)は、信直は国器、殺すに忍びないとして自分の居館剣吉館にかくまった。(『八戸南部家文書』八戸家伝記)

 南部晴政は報復のため、剣吉館および南長義(高信の弟・信直の叔父)の浅水館を襲撃した。晴政が八戸薩摩政栄にあてた出陣要請の書状が伝存している(『八戸南部家文書』晴政書状)。櫛引河内兄弟が浅水館を襲撃した戦闘は、天正十九年(一五九一)九戸政実一揆の時の事件(『奥南盛風記』)として伝えられている。けだし、晴政の要請による浅水館襲撃事件であったと勘考される。

 ■輙・乃・則・即・便・載(すなわち)

 輙(すなわち)は輒の俗字。『大字典』によれば、輒は「そのたびごと」「いつでも」の意。乃は「そこで」の意。上の文と下の文の継目におく。上を承けて下を起こす辞にて詞の移り目を緩やかにす。「廼」に同じ。則は上を承けていう語。原因結果を述べるにいう。「そのときは」というに当たる。俗に「れば則」という。即は今の義にて「直に」「すぐさま」の意。取りも直さずと訳す。便は即より意緩く「すぐに」「たやすく」の意。載は承(う)けて載せる意味があり、上を受ける詞。「たやすく」「そのまま」というに当たる…とみえる。


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