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「第6回藤原嘉藤治パネル展−初期の賢治全集出版に関する書簡集」(かとうじ山こだまの会主催)が17日まで、紫波町小屋敷のビューガーデンで開かれている。嘉藤治が所蔵する書簡の中から、賢治全集出版に関する手紙やはがき15通を展示。賢治研究の草創期に宮沢家から全面的に信頼され雑誌に掲載する賢治作品の校正、全集の編集、映画化など、すべてにかかわった嘉藤治の姿をうかがい知ることができる。
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【写真】賢治全集出版に向け宮沢清六さんから藤原嘉藤治に出された書簡の一部
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嘉藤治は1934年秋に宮沢賢治が亡くなって、勤務していた花巻女学校を退職。家族を連れて上京し、小学校の教師や日本青年館の書記をしながら賢治全集の出版に精力を注いだ。全集編集に携わっていた時期の書簡を中心に紹介されている。
書簡は賢治の弟の宮沢清六さんの手紙7通とはがき1通。森荘已池が2通、坪田譲治、谷川徹三、菊池武雄、伊藤ちえ、野村胡堂からのものが各1通。
最も多い清六さんの手紙について、こだまの会の瀬川正子会長は「昭和10年から20年にかけて書かれた手紙が100通以上残されています。ほとんどは全集、童話集、名作選など賢治作品の出版に関する打ち合わせ、依頼、質問、協議、ねぎらい、お礼などです。賢治研究の本などでは嘉藤治について全集編さんに携わった一編集者として紹介されていますが、手紙からみると、嘉藤治は宮沢家から全権委任を受けていて、編集者間の意見調整役をしていたことが分かります」と説明している。
展示された8通も編さんに関する事務的な内容が多い。1939年1月の手紙は全集4、5巻についての打ち合わせ、清六さんが雑誌掲載用に書き写した賢治作品の校正依頼、6月は他の出版社から賢治の童話を出したいと坪田譲治から申し入れがあったことについての相談。風の又三郎の映画化など、何かあると嘉藤治に相談し任せていたことが手紙からうかがえる。
全集編集委員でもあった谷川徹三からは、岩波文庫から賢治童話集を出版するに当たり、全編集委員の了解をほしいという相談だった。
坪田譲治からの手紙は1940年6月、風の又三郎の解説文の謝礼金を賢治友の会の研究費用として使ってほしいとの依頼。野村胡堂からは賢治全集を届けにきた嘉藤治へのお礼、新しく書いたレコード解説本などを贈るとの内容の手紙。
伊藤ちえは、賢治が思いを寄せた女性と研究者から紹介されていることに対して削除の要望をつづっている。賢治が伊藤あてに書いた手紙も掲載しないでほしいとの長文の手紙になっている。
瀬川会長は「嘉藤治と賢治とのかかわりは知り尽くされているが、賢治が亡くなったあと世に知らせるため嘉藤治がどう動いたのか手紙を読むことで分かる。賢治研究をする上で貴重なものになる」と話している。
ビューガーデンは紫波町小屋敷字新在家1の11(電話673−7882)。西部開拓道沿いで、盛岡方向からラ・フランス温泉館に手前にある。
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