2004年 11月 5日 (金)        

■  〈古文書を旅する〉35 工藤利悦 「高信斯波表出馬のこと」

  ■高信再び斯波表(しわおもて)出馬のこと

 かくて元亀二年(一五七一)の暮れ、斯波(しわ)と南部と百姓米納め出入りによって争論あり、斯波領の百姓不来方へ米を納め米つかまつり候とて百姓どもを無躰(むたい)に捕え、境目にて磔(はりつけ)に行い無禮(ぶれい)の躰(てい)、誠に言語同断なれば、高信この事を糺(ただ)さんと再三の使いのたまうことを終いえて、元亀三年三月、斯波表へ出馬せられ、先年のごとく経ケ森に人数を揚げ、九戸修理・福士伊勢・日戸・玉山・一方井・沼宮内・川口・厨川等の人々をもって日夜矢合にて日を送り(今の本宮泉屋敷あるいは小高という処にて大廻り合いあるよし)、斯波殿は見前(みるまえ)舘に陣を取り、高信は矢倉を揚げて敵の進退を見なさせられける(今、永井村の内高屋倉という処あり)。

 毎度、斯波方打ち負け候て本陣へ逃げ返す。稗貫殿この由を聞きたまいて、また双方へ使僧をもて扱いを入れられけるに、高信申しけるは、斯波方に由なき難題申し懸けられけるの行跡、今度においては是非打ち果たし申したく候えば、強くおん扱いお聞き捨てたまうべくと申し返さる。

 また重ねて家老八重畑何某をもって連日扱いを入れられける故、高信申されけるは、しからば向後、南部へ対し境目争論これ有るべからずよし、誓紙を渡たされ候え、左なくば、今度味方毎度勝利を得候條、南は見前を限り、西は湯澤を限り、斯波の領地を南部へ渡さるべく候や、左なくば和睦調(ととの)い申すまじく候よし申し切って返されける。

 このこと、斯波にて評定ありけるに、領地は時の勝敗、世の習いにて、取るも取らるゝもその変有るべくものに候。誓紙は末代家名の穢(けが)れに候えば、地を渡されしかるべくとて、則(すなわち)見前館を添えて南部へ渡され、稗貫の使者帰りければ、高信見前の館へ日戸内膳を居え置き、また同所旧舘には(家名知らず追って記すべく)を差し置き、境目仕置きせられ、不来方に申されける。

 その時、舟越修理・金濱圓齋、高信へ申されけるは、このごろ津軽に騒動これあるべくよし伝え承(うけたまわり)候。今は夏の最中に候えば、秋に至り、不意にご出馬あらば御手に入り申すべく旨申しければ、高信実にもと思し召され諸軍勢を備えられ、身は一方井(いっかたい)に入りたまい、秋を遅しと待ちたもう。

 私(著者・伊藤祐清が考える)に高信斯波出馬は、これにて両度なり、古き申し伝えにはたびたびの様に申し伝え候えども、御子信直様取りまじえ申し伝えにこれ有るべくか、湯澤のしるし森、この時のしるしは、稗貫殿たびたび扱い候こと。斯波を館にしてその領地全(まっと)うせんためと見えたり。 (「祐清私記乾」)

 【解説】斯波氏攻略を虎視眈々(たんたん)としていた高信の下に「斯波領の百姓が不来方(他領)へ年貢米を納入したことを斯波家がとがめ、境目にてその百姓をはりつけの刑に処した」の報が届く。

 これを聞いた高信は「無禮の躰、誠に言語同断なれ」とし、期到来とばかりに岩手の諸士を動員し、斯波領へ侵攻した。はりつけの刑に処したとする話の真偽は置いて、高信の行動こそ言いがかりそのものである。

 高信は、経ヶ森に本陳を構え、対する斯波氏は永井の高屋倉の地にて南部勢を迎えた。

 合戦場は見前付近から津志田・小鷹・本宮、東は門にかけて広範な土地に及んだと伝えている。「本宮泉屋敷あるいは小高」とある泉屋敷は盛岡商業高校(字本屋敷)と原敬記念館(字熊堂)の中間地域、小高とは南は現在の盛岡四高入り口、交差点付近までの地域を称している。

 しかし、戦いは時の運。斯波氏劣勢の中に戦いを終え、見前以北は南部領に組み込まれたという。

 今回も仲裁に入ったのは稗貫大和守(天正三年=一五七五年=三月十四日卒『篤焉家訓』八之巻「信直公御代御領中城数御書上之事」)と伝えられる。この斯波氏攻略を元亀三年(一五七二年)の事件とするのは、高信の死後(元亀二年死、考察は第27回に掲載)に生じたことになり、年代的に疑問のあることは既述のとおりである。

  ◇   ◇

 後年のことになるが、天正十六年(一五八八年)、斯波氏は南部氏の攻略により滅亡した。一時、南部氏に臣従し、慶長十九年(一六一一年)に大坂陣に従軍したが、旧臣の配下に属することを嫌って浪人になった。

 『参考諸家系図』四十三斯波系図・孫三郎詮基譜は「慶長十九年(一六一四年)十月大坂御陣に金の切割衆にて御供す、此時故臣中野吉兵衛・大ケ生玄蕃・簗田大学等、大禄にて御供也、詮直其下位に列するを耻て、大坂御帰陣後願に依て御暇を賜ふ、京都に登り、後同族に依て出羽最上氏に寄食す」と伝える。

 『聞老遺事』大坂御陳御人数積には「切割之衆 斯波孫三郎 八人」と見える。

 次回は、史実に照らしての真偽は棚に置き、その末裔(まつえい)が認めた記録としては数少ない記録とみられる記録を紹介する。京に仕官を求めて京西六条にあった様子を認めた斯波家先祖書である。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします