2004年 11月 9日 (火)        

■  〈いわて鉄道物語〉23 大内豊 「鉄道馬車が登場」

 千里軒という名称で乗合馬車の営業が続けられたが、経営者はその後交代した。乗合馬車は、橘内円太郎という落語家が寄せでラッパを吹いて客を待っている風景を演じて評判になったことから「円太郎馬車」と呼ばれるようになり、ますます繁盛していった。

 東京市内の乗合馬車の最盛期は、明治23年ころであったといわれているが、鉄道馬車の乗り心地にはかなわず、明治30年ころには姿を消した。

 ■鉄道馬車の登場

 軌道を有する乗合馬車は「鉄道馬車」と言われる。別名「馬車鉄道」とも言われた。日本では、外国人の経営する「乗合馬車」を見てきたが、それに改良を加えて出願された。

 日本で鉄道馬車が開業したのは明治2年5月、成駒屋、下岡蓮丈らによるものが最初で、走行区間は横浜から日本橋までであった。車両は外国製の2頭引きで6人乗りであった。

 鉄道馬車の日本での最初は、東京馬車鉄道株式会社によるものであった。明治13年11月11日に許可になり、直ちに工事に取り掛かり、明治15年6月25日に営業を開始した。

 線路は、新橋汐留車庫から上野行きと浅草行きで、2頭引きで車両の定員は24人から28人乗りであった。最盛期には馬車300両、馬2000頭にも膨れ上がってしまい、この管理に大きな負担がかかり、馬に代わる動力が求められた。

 東京での乗合馬車は、鉄道馬車の乗り心地の良さに押されて、明治30年には姿を消したが、鉄道馬車の方も馬の管理などで明治36年8月を境に次第に姿を消していった。しかし、地方の交通としては鉄道馬車はまだまだ盛んでこれから開業するところも出ていた。

 明治36年8月、品川・新橋間が電化された。その後、各線の電化が進むにつれて、鉄道馬車は次第に姿を消していった。(大内豊)


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