2004年 11月 10日 (水)        

■  〈いわて鉄道物語〉24 大内豊 「鉄道馬車にも限界」

 ■鉄道馬車の最盛期

 日本では、蒸気機関車が入ってから鉄道馬車が開業した。鉄道馬車が蒸気車と並行して本格的に開業し、活気を呈した形になったといえる。これは、わが国の交通史の特色といえるし、馬事文化の証しでもあろうか。

 しかし、東京馬車鉄道株式会社だけでも、馬車300両、馬2000頭にもなってしまい、馬の飼育、管理が会社の経営に大きな負担となってきた。馬に代わる動力近代化が求められるようになった。経済の進展などによって鉄道馬車の利用客も増加してきて、輸送改善が求められてきたが、馬の輸送力には限界があった。

 東京市内の2頭立ての乗合馬車がさっそうと走る姿は素晴らしいもので、最初は主に外国人に利用されていたが、次第に日本人にも利用されるようになった。

 今日であっても、許されるのであれば馬車鉄道の勇姿は高級感が漂うものであろうと想像できる。

 東京市内の乗合馬車は明治23年ころが最盛期であった。それが鉄道馬車の乗り心地に押されて姿を消していき、そして鉄道馬車は明治36年8月の品川〜新橋間電化によって逐次姿を消していった。

 地方ではその後も鉄道馬車の活躍が続いたが、各地で繁栄した乗合馬車も昭和10年ころには営業11社で車両は28両、営業キロ数は49キロとなっていた。

 近年、観光用として鉄道馬車の復活を進めているところが出てきている。

 ■人力車

 人力車が日本に移入されたのは、江戸後期から明治初めであったろう。その前は、駕篭(かご)であった。岩手県に人力車が入ったのは、江戸後期から明治初年と考えられ、岩手県統計

書には明治14年に6台が登記されている。

 水沢から岩谷堂までの料金が10銭と記されている。人力車が入り、乗合馬車が運行されるようになり、さらに鉄道馬車が走るようになって、やがて自転車が入ってきた。(大内豊)


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