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■人車鉄道
地方では、どうしたわけか原始的な『人車鉄道』が開業するのが見られた。明治29年3月13日には小田原・熱海間に「豆相人車鉄道」が開業した。8人乗りの客車を3人の車夫が交代で押すもので所要時間は約3時間であったといわれている。
この豆相人車鉄道も、後には蒸気機関に動力を変更した。鉄道馬車、人車鉄道の最後は、宮崎県の「銀鏡(しろみ)軌道」で、ここでは「人車と馬車の併用」であったが、昭和24年1月に解散した。
■人車と馬車の併用鉄道
宮崎県の銀鏡軌道のように人車と馬車の併用の軌道が地方で開業した。鉄道は「専用の線路を有した鉄道」であり、軌道は「公共道路上に敷設された軌道」という解釈である。
私設鉄道として最初に登場したのが「東京馬車鉄道」であったが、創業時には軌道に対する法規が日本にはなかったので、東京馬車鉄道会社や碓氷馬車鉄道会社に対しては、それぞれ「特許状」に伴う命令書により、個別に事業経営の基準を定めた。
東京馬車鉄道の示した成績が機縁となって、軌道事業の計画が随所に起こった。地方鉄道も各地で創業の機運が高まり、それに対応することとして「私設鉄道条例」が明治20年5月17日に公布された。
■岩手県内の乗合馬車・鉄道馬車の開業
岩手県に最初に営業用として乗合馬車が登場したのは明治12年ころであった。「盛岡市史第8巻」には、杉本亀吉という人が明治初年に開業したと記されているが、正確な年代は分かっていない。
県内で開業時期が明確に記されているのは、大迫町史交通編にみられる「驥運社」の明治16年6月26日開業である。
日露戦争が始まった明治37年から38年ころ、つまり今から約100年前に営業開始したところが多く、盛岡市とその周辺町村へ、また一関町、盛、宮古町、そして稗貫郡では温泉へ乗合馬車が開業した。
(大内豊)
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