2004年 12月 03日 (金)        

■  〈古文書を旅する〉39 工藤利悦 「晴政公の刀、紛失す」

  ■真守御刀のこと

 

 晴政公の御刀紛失す、何者の所為かその故を知らず。故に役司その事を上聴に達す。糺命を請け、その罪とともにこうむらんことを願う。君(晴政公)言うにしかず。汝、いずくんぞ朝暮れにこれを守らん、しからば予、罪なき者を罪せん。あえて奴僕の来るところにあらず。刀はこれ武器なり。武をはげみ、剣を好む若侍、一旦の貧しき心を起こしてこれを取り去らん。然ればその刀をもって奉公をせんと成るべし。武士の盗みには左もありうべき事ぞかし。もし金せん(銭)・米穀においては武士の所為ならざるなれば、罪科法のごとくせん。この事沙汰すべからず、打ち捨て置けとのたまいぬ。 (「祐清私記乾」)

 【解説】晴政公とは三戸城主、南部家二十四代の当主。とある一日、三戸城内で蜂の巣を突くような騒動が起きた。晴政の刀が何者かに盗まれたためであった。役人は事の経過を晴政に報告するとともに、刀番を不調法の罪によって処罰したいと願い出た。

 しかし、晴政はその申し出を不問にした。晴政が言うには、仮に武士が金銭・米穀を盗んだということならば処罰もしよう。盗まれたのは刀。刀は武器である。奴僕の立ち入るところではないここ城内奥深くへ、あえて刀を盗むためにもそれらの者が侵入するであろうか。武術を励み、剣を好む若侍の出来心と覚えるし、晴政を守護しようとする心があってのことであろうから、罪人をつくる必要はない、と。

 一般的に、信直およびその父高信については、名君・勇将としての所伝が多く残されている。しかし、晴政についての伝来記録は極端に少なく、見えるものは愚将・凡将の類(たぐい)である。そのような中にあって、ここに見える晴政は、まさに名将と称されるにふさわしい人物と言えよう。

 『寛政重修諸家譜』に見える晴政の譜は「安信の嫡子 天文八年(一五三九年)三戸の居城災にかかるの時、累代相続の証文等焼失す 永禄六年(一五六三年)三月十六日卒す、耀山熈公と号す 大慈院に葬る」とただ一条あるのみである。

 『南部根元記』「信直公南部之家督之事」の項には「頃は天文の末つかた家臣一条左衛門(寛保本・衛門之進)甲州へ遣わし、武田大膳大夫晴信公より晴の字を乞い得玉い、晴政と申ける」。

 星川正甫の『公国史』晴政本伝には「初彦三郎安政と称す、後、大膳亮と称す、永正五年(一五〇八年)四月安信公薨ず、公位(くらい)に即(つ)く、時に十一(中略・叔父高信が後見役をつとめたことを記載するが、『寛政重修諸家譜』に照らして、叔父とすること自体に疑問がある)、大永元年(一五二一年)、将軍義晴(足利幕府十二代将軍)立つといえども、天下の諸侯、討伐を恣(ほしいまま)にして将軍家の令を軽んず、公これを聞いて憤慨し、同五年(一五二五年)一条左衛門五郎忠昌を使者として駿馬・逸鷹を献じて音信を伸ばしぬ、義晴公の独り信を通ずるを喜んで諱字を賜う、公これにおいて晴政と改む」といい、一説として「甲斐国の武田晴信へ一条某を使して一字を請けて諱字を改むなり」とも見える。

 梅内祐訓は『聞老遺事』を介し、晴字は、武田晴信(信玄)より請けたことを伝えてはいるが、石巻・葛西晴信(宮城県北から岩手県南を領した大名)との交遊を考証し、武田信玄との関連には否定的見解を示している。

 ちなみに、『群書類従』所収の「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(永禄六年諸役人附)は、足利幕府の役人帳であるが、諸侯の中に、九戸五郎(政実か)と並んで南部大膳亮の氏名が連記されている。南部大膳亮は晴信と見られている。

 なお、明治期に入り、南部家の邸内に藩史編纂(へんさん)所が設立され、同所が調査した晴政没年は、永禄二年(一五五九年)正月二十四日説、永禄六年(一五六三年)正月二十四日説、同年三月十六日説または十八日説、永禄十二年(一五六九年)三月十六日説、元亀三年(一五七二年)八月四日説、天正八年(一五七九年)正月四日説を掲げ、「信直公以前の御系譜不審のみ有之、治定の勘考更にこれなく候」としている。

 織田信長の祐筆太田資房の著『信直公記』は、天正六年(一五七七年)戊寅年八月五日の条に「奥州津軽の南部宮内少輔御鷹五疋進上」の一条を記録している。南部宮内少輔は南部家の系図上に現れない人物だが、『内史略』前三は、この人物を晴政と読み替え、「天正六戊寅年八月五日 晴政公より使節を以て、安土城へ御鷹五居、織田信長へこれを献納す、安土に在城有りて天下の権を握る故也」と記載している。

 一方、『祐清私記』「北左衛門進南部系図」の項には「信直は織田信長へ誼を通じようとしたが、果たせなかった」と記録している。

 南部宮内少輔は、晴政と異名同人かという問題の解決も重要であるが、仮に『内史略』の説を受けて、晴政は織田信長に誼を通じていたとするならば、信直が誼を果たせなかったという真の理由は何であったのだろうか。

 最近、青森県史が編纂刊行されている。新しい史料が発掘され、続々と新たな見解が発表されている。信直についても「信直は中世南部家の記録を継承できなかった理由があるのではないか」と踏み込んだ意見さえ聞こえる。

 これまで信直以前の南部家の歴史は、すべて、寛永十八年(一六四一年)に幕府へ書き上げた『寛永諸家系図伝』所収「南部系図」の姉妹編として編纂された『南部根元記』の世界観に彩られていた。『南部根元記』は信直を南部家の根元と位置付ける信直の伝記であるが、その世界観がほころびかけて来ていることが如実である。

 ちなみに、晴政の墓はどこにあるのか、その所在すら知られていない状況である。現在、晴政書状は遠野南部家に二通伝存していることが知られているに過ぎない。『八戸家伝記』(国重要文化財指定)には、剣吉舘(青森県名川町)主北尾張信愛は、「晴政に命を狙われる信直は国の器、殺すに忍びない」として、信直を自分の舘に匿ったが、晴政はこれを良しとせず、剣吉および浅水の二舘を攻め立てたと記述している。

 書状は、将にそれを傍証する書状である。つまり、晴政自身が出陣し、浅水・剣吉を攻め立てていることを伝えると共に、八戸薩摩に対しても出陣を要請した書状である。文中に浅水・剣吉と見えるが、浅水舘は、信直の叔父南遠江長義(盛義とも)の居館。剣吉の舘主であり信直股肱の臣と称せられた北信愛は、南遠江長義の女聟である。

 ここから垣間見えることは、浅水舘主南長義が、甥信直を擁して三戸に反旗を翻し、女聟北尾張信愛らとともに晴政と交戦状態にあったこと。併せて、天正十九年(一五九一年)の九戸政実一揆に際して、櫛引舘主櫛引河内清長兄弟が浅水舘に南氏を攻めた(『南部根元記』)とされる戦闘は、実は、晴政の出陣のげきにより出陣した戦闘であった可能性が高いのではなかろうか。

 さらに言えば、かつては他家にも関連記録は存在したであろうと推察されるが、何故に八戸家のみに伝存しているのだろうかという疑問である。

 この物語「真守御刀之事」の真偽は知る由もないが、晴政の逸話として大事にしたい説話である。


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