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盛岡市本宮の先人記念館で第32回テーマ展「ただひとすじに武士(もののふ)の道−楢山佐渡・中嶋源蔵・目時隆之進の幕末維新」が開幕した。時は幕末の動乱期。旧幕府と新政府の間で決断を迫られたとき、盛岡藩の武士たちが描いた未来とは。その運命を決定づけた家老楢山と、命を賭けて彼をいさめようとした中嶋、外からの和平工作を図った目時。最後は切腹という同じ運命をたどることになる3人の武士たちの生き様を、残された資料を通して見つめ直す。
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【写真】左上は中嶋源蔵が自害したときに自らの血で記した抗議文。右上は弟への形見として与えた血の手形。下は遺書
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盛岡藩主南部利剛(としひさ)の家老を務めた楢山は、新政府に対する奥羽越列藩同盟への加盟を主張。時勢を考えてそれに異を唱えたのが、御用人の目時と目付役の中嶋だった。
同盟に断固反対の立場を取った中嶋を、楢山らは奸臣と呼ぶ。中嶋はついに、自身の死をもって楢山をいさめようと切腹。自らの血で行灯の紙に「奸臣、忠臣を殺す」と記し、弟への形見として血の手形を残す。その後、手にした刀で3度喉を突くが、刃の先が欠けてしまい、別の短刀で突き直し絶命した。同展では血書や短刀も展示している。
目時は自分の意見が通らないと悟ると藩を脱出。盛岡藩が新政府に逆らう意志のないことを示すために長州藩に走った。その後東北遊撃軍に身を投じ、新政府軍の内部から盛岡藩との和平交渉の推進を図った。
楢山は2人の意見を聞かず、奥羽越列藩同盟を支持。同盟を脱退した秋田との戦争に参戦するが敗戦。首謀者として捕らえられた楢山は東京に幽閉された。代わって目時が盛岡藩の家老職に抜てきされるが、藩士たちから売国行為の嫌疑を掛けられ、同じく東京に幽閉される。取り調べのため盛岡へ移送中、現在の北上市内で切腹した。
楢山は幽閉の約半年後、打ち首の刑が決定。盛岡市名須川町の報恩寺で切腹した。その1室で「いくとせも/国安かれと/祈るらん/ただひとすじに/武士(もののふ)の道」の句が詠まれた。
楢山の死から約50年後。報恩寺で行われた「戊辰戦争殉難者五十年祭」で、幼いころ楢山と交流があったという原敬が「明治維新は賊軍も官軍もない、あるのは政見の異同のみ」という祭文を読み上げたことを原敬日記の複製で紹介している。
その後も薩長の藩閥政治と戦い続けた原の生き方や、政治の世界で活躍した楢山と目時の親族や親せきについての資料も展示。幕末という時代の転換期を駆け抜け、自らの信念を貫いた3人の武士たち。その後に、また新たな歴史が紡がれてきたことを紹介している。
会期は来年2月6日まで。午前9時から午後4時半(入館は同4時)まで。毎週月曜日は休館だが、1月10日は開館。
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