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計画で終わった軌道
■釜石・花巻間軌道
釜石〜遠野間および遠野〜花巻間に馬車鉄道を敷設する計画は、遠野町の第2代町長高梁重太郎ら有志によって、明治42年ころに立てられた。
高橋重太郎は、釜石の田中製鉄所の横山久太郎所長と会見し、同所の馬車鉄道と連絡をとることや、敷設資材の融通などに掛け合ったふしがある。
高橋遠野町長は明治27年5月4日から大正8年6月27日までの長期間にわたり町長を務めた。この計画は数年前から一部有志によってもくろみもなされたが、その資金に4〜5万を要するところから出資のめどが立たず、また県側からの注意指導などもあって立ち消えとなった。(明治42年12月4日「岩手日報」掲載)。
■磐井馬車軌道
磐井馬車軌道は、一関駅と北上川畔の狐禅寺間を結ぶ4104メートルの軌道を敷設しようという計画であった。国鉄大船渡線が開通する前は、北上川舟運で狐禅寺が舟運貨物の集散地であった。この交通のあい路を打開するため、伊藤仲太郎らによって、この区間に鉄道馬車の敷設が計画された。
一関町吸川街9番地先から、一関町大槻町〜雷神〜真滝村大字三ノ関〜中里村大字中里〜真滝村禅寺土手外〜久田〜無台を経て川岸場63番地に至る2里44鎖、4104メートルの短い路線であった。
馬車軌道敷設特許願を提出したのが明治45年1月。発起人代表は伊藤仲太郎、発起人、吉川惣右衛門、吉家丈右衛門、小野寺竹三郎、佐藤栄三郎など14人であった。
磐井馬車軌道株式会社と称し資本金は1万8000円、1株の金額は50円、営業所を一関町に置くこととした。
軌間は2尺6寸、レールは1ヤード当たり12ポンドを使用する計画であった。工事費は軌道費7118円、停留所費1380円、車両費が客車4両と貨車6両で1860円、馬匹費が680円、土留石垣と橋りょう費その他で1万8000円。
願書は県を通じて明治5年3月18日に内務大臣および内閣総理大臣に進達された。発起人は全権を山内清三郎に委任したが、会社側の事態が依然として進展せず、6カ月、9カ月と延期を重ね、ついに大正2年12月9日に県から西磐井郡長を通して発起人に工事施設認可申請書などの書類が返納された。
この軌道計画を挫折させた事件とは、資金不足に陥った株式会社第八十八銀行が臨時休業して、払込金を引き出せなくなったことである。第八十八銀行はその後も解散せず、昭和13年に第九十銀行、岩手銀行と共に陸中銀行となり、昭和16年に岩手殖産銀行に買収された。(大内豊)
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