2004年 12月 08日 (水)        

■  〈いわて鉄道物語〉42 大内豊 「遠大な夢も現実は…」

 ■稗貫馬車軌道 岩手軽便鉄道は大迫町を通らなかった。鉄道から取り残されたことによるハンディを回復するために計画されたのが、大迫〜石鳥谷間の稗貫馬車軌道であった。

 大正元年11月3日付で、大迫町長上山定橘から亀が森村長伊藤松吉あてに趣意書が送られている。この呼び掛け文書は内川目村、新堀村、好地村の各村長あてにも発せられ、大正元年11月10日午前10時から大迫小学校で有志の協議会を開くので参集されたいとしている。

 大迫〜石鳥谷馬車鉄道の株式600株をもって着手すべく、各町村、委員に割り当てを行い協議を重ねてきたが、有志の足並みが乱れたこと、第1次大戦がぼっ発したこと、県下有数の製糸場の「岩亀、七折、後藤」の3大製糸場、岩亀喜助、村田由蔵、後藤由五郎の事業家を抱えていたが支援が得られずに、大正3年ころ稗貫馬車鉄道は流産してしまった。

 ■陸羽軌道

 厳美渓の観光、須川温泉、須川岳の豊富な森林資源の開発など、観光と産業の開発促進を狙って、当時の一関町長野村純馬ら8名が大正4年ころに「一関付近から厳美村五串字若井原まで」鉄道馬車を通す計画を立てた。

 馬車軌道敷設特許願は大正4年9月8日に提出された。路線は一関町深町30番地を起点にして、同町地主町、山目村山目字五代、厳美村五串字滝ノ上を経て五串字若井原190番地先を終点とする14里40鎖、2万3335メートルの軌道である。

 発起人は一関町の野村純馬、増子儀助、横山篤三郎、山目村の千葉甲佐、厳美村の安部庄市、東京市日本橋浜町の粟屋磯態らであった。

 社名を陸羽軌道株式会社として本社を一関町に置いた。資本金は10万円、1株の金額を20円として営業年限を大正35年10月10日までとした。

 工費の概算は軌道費、12ポンドレール、ポイントクロッシング、枕木、砂利、敷設費が4万8772円、線路用地費3199円95銭、土木工事費2万1020円、停留所費2972円50銭、馬匹・馬具費が35頭、3430円、建物・電柱移転費が1万1220円、測量設計工事費が1500円、その他計9万9000円となっている。

 この特許願は大正5年3月9日より内閣総理大臣に進達され、1カ月後の10月11日に特許された。

 会社では、おいおい、須川岳を貫通して秋田県に至る横断線にする遠大な夢を描いていたが、特許は取得したものの資本が集まらず、工事が着手できないまま大正7年9月5日西磐井郡長を通して特許状および命令書を返納した。(大内豊)


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