2004年 12月 08日 (水)        

■  〈最後の忠臣蔵〜寺坂吉右衛門異聞〉2 斎藤五郎 「岩手に歴史伝説あり」

 ■歴史こぼれ話

 そんなことから、稗史(はいし)に詳しい父から、仕入れたネタを使って、私が岩手放送ラジオでDJを担当していたとき、月のうち1回を「歴史こぼれ話」のタイトルで、正史では取り上げないような歴史伝説を取材して放送しました。2、3のお話を紹介しますと、まずは歌舞伎や邦舞でおなじみの八百屋お七の相手の吉三郎のお墓が水沢の法泉寺にあるというお話。

 家が焼けて菩提寺に仮住まいしたお七が寺小姓の吉三郎と恋仲になりますが、新築成って寺を去ることになったお七は、吉三郎と別れる悲しさに耐えられず、いっそわが家がなければと思いつめ、とうとう家に放火してしまうのです。

 江戸の昔は放火は死罪。お七は天和3年(1683年)放火の罪で火刑に処せられます。吉三郎はわが恋に命をかけたお七の霊を弔うために出家し、全国行脚の末、生涯水沢の法泉寺にとどまり、お七の菩提を弔ったといいます。

 戦国時代、豊臣、徳川、天下分け目の関が原合戦(1600年)の名軍師、真田幸村は豊臣敗北後、実は自刃したはずの主君豊臣秀頼を擁して薩摩へ落ちのび、幸村はその後、猿飛佐助や雲隠才蔵らと山伏となって諸国を遍歴し、秋田県大館市に落ち着いてここで没し、大館市の一心院に墓があり、子孫も大館に住んでいるということです。

 日本3大お家騒動といわれる黒田騒動、伊達騒動、加賀騒動の黒田(九州福岡)騒動で身を賭して愚かな藩主(殿様)をいさめて、黒田藩を救った栗山大膳(1622年)。

 その後、盛岡藩に預かりの身となり、盛岡では名を影山四郎兵衛と改めて藩政のコンサルタントを務めながら盛岡で没し、墓は愛宕町の恩流寺にありますが、栗山大膳が盛岡に流されて来たときは、罪人ではないので大勢のお供を連れた大名行列だったといいます。

 ですから、その人たちが栗山大膳と共に、この盛岡に定着したので、結構ご子孫という方がいまして、私の放送を聞いたといって名乗ってきてくれたりしました。

 このように、放送のおかげで「歴史こぼれ話」では、情報が情報を呼ぶとでもいいましょうか、連鎖的にいろいろな面白い話が集まりました。菅原道真の娘の墓が盛岡にあるという、びっくりするような話題もありました。

 もちろん盛岡の忠臣蔵の情報もありました。そんなことも含めて、これからの話が展開します。

 話を面白く興味を引くために、あちこち飛びます。歴史的な経緯やなり行きなどを知らなくても、話が分かるように、なるべく各駅停車で進めます。

 ■忠臣蔵のこと

 さて、続けましょう。私がまだ小学生だったころ、その稗史に詳しい父の思いつきともの好きのせいで、忠臣蔵は赤穂義士の一人寺坂吉右衛門の墓が盛岡にあるといって、私を連れて今の中央公民館(旧南部邸)付近を探して歩いたことがありました。こんなことがたび重なって、私も歴史好きになっていったのでした。

 日本人の成人で忠臣蔵を知らない人はいないと思いますが、そうはいっても寺坂吉右衛門のことは知らない人が大部分でしょうから、寺坂吉右衛門についてちょっと触れておきたいと思いますが、順序として忠臣蔵そのものからということになります。

 ■赤穂事件から忠臣蔵へ

 時代は5代将軍徳川綱吉の元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中は松の廊下で、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷(にんじょう)に及んだ事件が起きます。このため浅野はその日のうちに切腹、家は取りつぶし、お城は明け渡し、領地は没収という裁決を受け、吉良は何のとがめもありませんでした。

 その1年10カ月後の元禄15年12月14日(月こそ替われ14日というのは、このことです)、浅野の浪人たち47人が吉良の邸に乱入して、吉良の首を取り、芝高輪泉岳寺の浅野の墓前に供えます。これが歴史では「赤穂事件」とか「赤穂浪人復しゅう事件」と呼ばれるもので、後年この事件をモデルにして、浅野の殿中刃傷事件がなぜ起きたか、どんな事件であり、どんな波紋を呼びおこしたか、事実にいろいろなフィクションを入れて「仮名手本忠臣蔵」の題名で歌舞伎に劇化され、赤穂事件は忠臣蔵のネーミングで広く一般に知れわたることとなります。これがつまり忠臣蔵です。

 京都の朝廷から江戸の将軍家へ、毎年、新年の儀礼の勅使が来る恒例行事があって、その接待役を浅野が任命され、その指導役が幕府の儀礼係の吉良なので、浅野はいろいろ教えを請うのですが、浅野が吉良へワイロをやらなかったことから、吉良は浅野へうそを教えたり意地悪をしたので、浅野は遂に堪忍袋の緒が切れて、憎い吉良に切りつけたというのが実説になっていますが、浅野は十数年前にもこの役をやったことがあり、彼の妻(阿久里=赤穂事件後は、てい髪して瑶泉院)の実家でも、そのあとにこの役をやっているので、実は役務は知り尽くしていて、吉良の指導もいらなかったし、もし接待に失敗があれば、指導者である吉良の責任にもなるのですから、これもやっぱりフィクションらしいのです。

 と、私でも言えるくらいのもので、実は解釈もいろいろあって、諸説定まらぬのが忠臣蔵です。(つづく)


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