2004年 12月 10日 (金)        

■  〈古文書を旅する〉40 工藤利悦 「和賀岩ケ崎城攻略」

  ■岩崎の事

 一、利直公岩崎(北上市)の城を攻めんと欲し、すでに花巻を発し、十二丁目(花巻市)より、中道を経て横川目へ懸かり、諸卒を押し行く。

 その日雨降りかつ暖かなり。ゆえに和賀川雪雫出て、諸卒たやすく越えることあたわず。あえて浅瀬には番兵逆茂木(さかもき)を引きて多くこれを守る。

 利直公物見をもってその故を監察し、神楽嶋に陣し、同所三右衞門が家に居住せしめたまい、諸軍へことごとく触れていわく、この雨、しばらく晴れるべからず。しかれば雪雫なお洪水せん。三日を過ぎ触れに応じ行軍すべし。諸軍この触れに応ず。その夜また触れて言う。

 とにかく花巻へ帰陣、月を経て軍を発せん。寅の下刻、出貝を聞きて打ち立つべし。今宵の粮(りょう)をしたくせよと言いて、諸勢この旨に応じ、すでに寅の下刻に及び、出貝終えて諸勢皆本陣に群す。

 この時刻、諸勢を三ツに分かつ。その手の奉行八戸(弾正)、桜庭(安房)なり、次に旗本北信愛跡備えとなり、これ服心の臣なるゆえ成るべし。諸勢花巻へ帰らんとす。

 八戸・桜庭は自旗、あるいは挑燈を下知して南へ向かい、すでに和賀川岸へ至る。八戸真っ先に進んで一丁ばかり川上を渡る。櫻庭同じく進んで一丁(約百九メートル)下を渡る。

 利直公続いてその中を渡る。この時火縄の火消え、諸人あわてじと言う。諸勢渡り終わりて北信愛極老(意味不明)ならびに陣具・粮物等、馬筏(うまいかだ)をもって渡し、自ら下知し、ついに静かに諸勢を渡さしむ云々。

 この時、城方番兵、敵の不意に渡り来るに驚き、兵器を捨てて城に逃げると言う。利直公かねて定め置かせらる七折の陣、城に入らしめ、諸卒の労を尋ねせしめたまう。(「祐清私記乾」)

 【解説】天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉は小田原の陣の後、小田原に参陣しなかった奥州の諸大名をことごとく処罰、所領を没収した。これを奥州仕置と呼ぶ。

 これによって和賀双子の領主和賀義治も城落ちをして秋田仙北に潜居したという。時移り、慶長五年(一六〇〇年)、義治の二男和賀主馬忠親は伊達政宗を頼り、先祖の故地和賀に立ち帰り挙兵した。

 九月二十日の夜、譜代の家人らと鳥谷ヶ崎城(花巻城の古名)に夜討ちをかけたが敗退、和賀岩ヶ崎城に籠城した。この舘は、和賀川を対峙して鳥谷ヶ崎城が一望にできる堅城である。

 当時、南部利直は山形最上に出陣中であった。会津の上杉景勝が石田三成と策謀して挙兵(西軍)。山形の最上義光は徳川家康(東軍)に味方し両軍対峙していた。

 南部利直の出陣は最上氏援軍のためであった。和賀一揆の報に接した利直は、直ぐさま許可を得て帰国、『東奥軍記』によれば、十月三日三戸に下着し、十月八日花巻へ出陣、岩ヶ崎城の西方、兵庫舘に陣場を構築したが、間もなく降雪の時期を迎えて十一月十六日(太陽暦換算十二月二十一日)花巻まで帰り、そのまま三戸に帰陣した。

 この時浄法寺修理(高五千石)は南右馬之助と共に留守将を命ぜられたが、これも帰国し、越年して陣所に戻ったことが後日に露顕、所領没収となった。

 これを和賀初陣という。ここにある「岩崎の事」は、翌慶長六年の、いわゆる和賀再陣に関する所伝である。「和賀川雪雫出」などとの記述はあるものの日時は見えない。

 しかし、『和賀一揆次第』には描写を同じくして「去程に三月には、北松齋を召され、軍の御評定をなされ、三月十三日(太陽暦換算四月十五日)に御出馬ありて、江釣子村三月田にて御勢揃いなされ、立川目村神楽嶋へ御越、和賀川を打渡り申すべき処に、雪代水にて渡るべきようもなし、近所の百姓に佐藤孫市と云うもの年拾七歳、瀬踏み仰せ付けられ、馬筏にて難なく御越なされる、すなわち孫市に料米二十俵を下されけり、(中略)翌日十四日、七折を御陣と定め、同十五日一両度御仕寄せ、手合せ軍(いくさ)これ有りといへども云々」とあり、三月中旬のことであったことが分かる。

 かくて四月二十六日、岩崎城は落城。和賀主馬忠親は八月末、仙台の国分尼寺で家臣らとともに切腹し同所へ葬られている。岩ヶ崎城に立てこもった人数は四百八十人、仙台領より加勢三百騎(『和賀一揆次第』)とある。

 一方、南部方の勢は、先の『東奥軍記』によれば「総勢四千七百人、御帰陣に御改、三千人少余これあり」とある。この人数差は千数百人。何を意味しているものかは計りかねる。

 この時、伊達政宗の命により、水沢城主白石若狭宗直、岩谷堂城主母帯越中等が和賀氏を援軍した。白石若狭は戦後伊達氏を称し、末裔は登米寺池に移り登米の伊達家で明治維新を迎えた。

 政宗から南部利直へあてた書状(南部家旧蔵文書)には「この度の一揆に此方の百姓も少々相加わりの由、言語同断の限り云々」の文言がある。このこともあってか、母帯越中は詰め腹を切らされたものと知られ没落している。

 ちなみに、母帯越中は、前沢町母帯の在名により氏とした葛西氏旧臣であった。「一揆に加担した百姓云々」のもとに切り捨てられ、滅亡した一族があったことは、あまり知られていない。

  ◇  ◇

 馬筏(うまいかだ) 川に馬を並べて筏のように仕立てたもの。歩行の兵をこれに取り付かせて泳ぎ渡らせる。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします