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■詩篇「森林軌道」
滝沢村から外れるが溶岩流と関連するので「森林軌道」という作品にちょっと道草します。
この作品は大正14年1月25日に書かれたもの。『新宮沢賢治語彙辞典』によると、岩手県内の森林軌道は大正10年に「早池峰山〜川井村江繋、東前川村(焼石連峰)〜水沢」に敷設されたのが最初で、この「森林軌道」の素材となっているのは後者ではないかと指摘していますが、どこか違和感を覚えます。
その違和感は語彙辞典の指摘する地域と、この作品を構成する「岩手火山・三つ森山・鎔岩流」の地理的条件が合致しないことによるのです。
この地理的条件に合致するのは一本木原か大更村の地域ですが、問題は大正14年にはたして森林軌道が敷設されていたかどうかなのです。
「大正元年測図昭和十四年修正」の地形図は、大更村と滝沢村の両地域に森林軌道=林用軌道記号が記載されていることを確認しました。滝沢村の軌道は、厨川駅から牧野林・大石渡を経て柳沢地区に達するもので、一本木原への敷設が見られず作品現場とは乖離(かいり)しているようです。
大更村の軌道は大更駅から中平笠を経て岩手山の北すそを西に向かって貝倉清水地区の国有林に達しています。この軌道は大正13年6月の敷設と西根町史にみられますから、賢治はその翌年1月にこの森林軌道を訪ねたと思われます。
この軌道は後にガソリンエンジンの動力を使用したようですが、最初は人力でトロッコを伐採地まで押し上げて丸太を積み、帰路はこう配を利用してブレーキをかけながら下ったらしい。たしかにその様子が下書稿にリアルに描かれています。
「ところがごろごろ鳴ってゐる/わたしは軌道を避けてゐよう」
「もうやってきた/赤や黄いろの荒縞を着て/誰もみんな海賊風だ/銅切りされた巨きな楢をつけてゐる」こう配を下ってくる人力トロッコの車輪の響きを察知して、賢治は軌道から避けたらしい。そのトロッコには太いナラの丸太が積み込まれ海賊みたいに派手な作業人足が乗っていたのです。賢治は新田よりずっと西寄りの地点で吹雪にまかれながらトロッコを避けたのです。そこからは岩手火山・溶岩流・三つ森山がよく展望できたものとみられます。
この日は日曜日でした。賢治は新設の森林軌道見学の目的にのみ大更を訪れたのでしょうか。
■詩篇「森林鉄道」の下書稿(一)
岩手山がほとんど白いプテングで
裾は岱赭のからまつばやし
それからあとは負性の雪のひろがりで
小松の黒い金米糖が
いちめんばらばらちらばってゐる
……ごろごろとろが鳴ってゐる……
……ごろごろとろが鳴ってゐる
わたしは軌道から避けてゐよう……
凍った雲と
まばゆくかすむ日の下で
三つ森の半分には樹木が植り
残りのは白いブリキの剣で飾られる
……そこのまっくらな鎔岩流刻鏤のなかで
熱した風が黄いろの苹果と結婚した……
吹雪がいきなりひかって騰り
鳥はピッピッピッピ
一生けん命そこらを縫って
つめたい潮水の中で叫んでゐる
……もうやってきた
赤や黄いろの荒縞を着て
だれもみんな海賊風だ
銅切りされた巨きな楢をつけてゐる
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