2005年 1月 7日 (金)        

■  〈いわて鉄道物語〉60 大内豊 「盛から上有住を経て上郷を目指す」

 ■津軽半島横断線

 1922年(大正11年)、青森〜蟹田〜三厩〜小泊〜五所川原に至る「津軽半島縦貫線」として鉄道建設が予定線に編入された。津軽線は三厩まで開通し中小国までは青函トンネルのルート(津軽海峡線)として脚光を浴びたものの、小泊方面の日本海側ルートは計画に終わってしまった。

 五所川原からは津軽鉄道が盲腸線のように走っているが、半島を横切る縦貫線にはつながらなかった。津軽半島には青森ヒバの搬出に森林鉄道が網の目のように敷設されていたが、自動車輸送に変わって撤去された。森林鉄道の車両・資料などは青森市の森林記念館に保存されている。

 十三湖、七里長浜などの観光資源に恵まれているが、観光の目が向けられるようになったのは最近のことで、竜飛から小泊の間の竜泊ラインの道路は自衛隊による工事で開通した。昭和63年3月、津軽海峡線が開通して青森〜函館間の青函連絡船が姿を消した。

 ■上有住〜盛間鉄道、岩手開発鉄道

 岩手開発鉄道は、国鉄大船渡線終着駅の盛(さかり)から日頃市村、世田米町、上有住村を経て上閉伊郡上郷町国鉄釜石線平倉駅に至る延長29.1キロの地方鉄道を敷設する計画だった。

 この鉄道の計画は、大船渡港と北上山地内陸部を結び産業振興を図るとともに、沿線の石灰岩や森林資源などの開発と沿線住民の交通機関とするため、県知事が発起人となり、資本金250万円で創立され、昭和6年5月に第1期工事が盛〜日頃市間で着手になった。

 しかし、昭和12年大東亜戦争がぼっ発し、以来、急激な資材不足などにより、工事がしばしば休止せざるを得なかった。

 関係者の努力によって昭和19年12月再着工し、3年7カ月で土木工事が完成し、引き続き第2期線土工工事に入ろうとしたが、戦局が日増しに緊迫し、情勢悪化により着工に至らず終戦を迎えた。

 戦後、岩手開発鉄道建設促進同盟会を結成して陳情を重ね、昭和24年、資本金の増資を行い、線路敷設工事に着手し昭和25年10月盛〜日頃市間6.4キロの営業を開始した。

 引き続き第2期工事資金の調達に努めたが、年ごとに経営状態が悪化し、昭和30年に至り、小野田セメントより再建のための協力を得ることとした。

 昭和32年、セメント工場の製品輸送を主たる目的にして盛〜赤崎間2.5キロの鉄道を敷設し、昭和34年からセメント輸送を開始した。

 昭和35年6月、日頃市町長岩鉱山の砕石輸送のため日頃市〜岩手石橋間3.1キロを開業した。輸送量は昭和37年をピークに利益計上していたが、昭和43年の昼夜運行を境にセメント業界の環境の変化が生じてきて石灰石の輸送も昭和55年をピークに減少に転じた。

 旅客輸送は昭和49年から徐々に減少し、平成元年には最盛期の5分の1に減り、平成4年3月で旅客部門を廃止し、貨物(砕石)輸送となった。旅客部門の輸送は41年9カ月で幕を閉じることになった。

(大内豊)


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