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■南部二十九代重信公の御事(その2)
一、重直公御病気御大切(危篤)の由、江戸より申し来り候につき、七戸隼人様(重信公の御事なり、その頃重政と申し奉る)急ぎ江戸に御登りなされ候ところ、道中にて重直公御死去の由御聞きなされ、御帰国なさるべく思し召され候ところ、江戸より御使にまかりおり候者、まず御登りしかるべく由申すにつき、江戸へ御登りなされ候由。御老中へ御内意を仰せられ候ところ、まず御国元へまかり下りしかるべく由お指図にて御下りなされ候。
一、御在所にて御譜代の諸士、今度御名跡仰せ立てらるるもこれなく御逝去のこと不安に存じたてまつり候。いずれも誰々と御名跡の儀内談つかまつり候。その頃風説に、山城守儀一生公義の勤めを軽んじ、上を蔑(ないがしろ)にし、継目の申し立てもつかまらず病死の段言語同断の義なり。これによってこのたび敷代の領地召し放たれべく候由、既に公義相決まり、近日中隣国へ城受け取りの儀も仰せ付けらるはずの由風聞なり。
これによって御譜代の諸士もし領地召し上げられ候はば城を枕にするか、花巻へ討って出て境目にて討死するか、数代の領地、をめをめ渡すべからず、しかし風説のみにて慥ならず、左のみ荒気の支度いかがなり、先ず御嗣の相談こそしかるべくと存ずる内に、その頃毛馬内三左衛門という人これあり、数年出合懇意の者ども段々打ち寄せ、このたび御名跡誰れをか御心付け候哉と言いければ、とかく今度御名跡七戸隼人殿にてこれあるべく由申す者多し。三左衛門大いに喜び左候はば、これへ血判をせよとて連判の書付を相出して一味同心を記され候由。
この事義士忠義之御譜代に聞き伝わり、昼夜彼宅へ馳せ参り、前後を争い連判に相加わり候、その頃八戸弥六郎を守り立て南部の名跡を申し立つべくとて内々に一味の者どももこれある由、古来より南部の家絶え候時は八戸より継ぐ、八戸家絶え候時は南部の庶子が是を継ぐということあり、家中一の大身、殊に公義にて御存知の家なればしかるべくとて、密かに八戸家へ打ち寄る(者ども)数多しとうんぬん。また新参の諸士は公義へ願い上げ、公義御庶子かたがた御連子方なりとも申し請け、南部の主に仰ぎたてまつるべくと、隼人殿においては主人と頼みべからずとて、これまた一味連判つかまつり候由。
これによって御家中三つに分かれ、他人には申すにおよばず、親類・父子・兄弟まで心を置き、その服心を語らず、その騒動言に絶えたり。
その頃上方衆餘多の内、上方組へ連判つかまつらず、隼人様へ一味つかまつり候者は安村監物・桂源五左衛門、右御家中の一ッ刻内談のこと、重直公御逝の御飛脚着き候てのち、九月廿日(寛文四年=一六六四年)頃より段々密々相談、廿八九日の頃に騒動。
(「祐清私記乾」)
【解説】重直は、世子吉松を病死させた承応元年(一六五二年)の翌年から病床に伏せることが多かった。大病は数度に及び、その都度、幕府から見舞いの使者・医師が到来している。南部家程度の外様大名としては破格の処遇であった。
七戸隼人(重信)が江戸にいる時には、吉松の死去の時など、幕府役人に対して主人役を務めている。この項に見える「七戸隼人様急ぎ江戸に御登りなされうんぬん」は、承応二年四月のことであった。
実はこの時、吉松の夭死を受けて養嗣子となった甥久松(山田主水利長の長子)も江戸へ向かったが、道中高清水駅(宮城県高清水町)で急病で死去している。
明暦二年(一六五六年)に危篤状態を脱して平癒した後、万治二年(一六五九年)には堀田正信の弟勝直を養嗣子としているが、つかの間に急死。子供運がなかった。
加えて弟利長は寛文二年(一六六二年)正月に死去した。この時点で生存する兄弟は重信と直房を残すのみであった。寛文二年九月晦日(みそか)に改めて将軍家に養子について重信を指名した節がある。将軍は承知したと答えている(『徳川実紀』)。
南部家旧蔵文書『秘書』同年十月三日条に「内々御願の御養子様の儀、以来は仰せ付けらるべく候間、心安く存ぜらるべくの由上意の旨、御老中様御三人より船越伊与殿・荒木十左衞門殿為御使」。
『祐清私記』もこの時のことを「将軍家綱公へ養子の事願せけるは養子願い事無用たり、遺跡の事は悪敷は御斗ひ(はからい)有るまじく、ただ病気の保養致すべくと有りしかば、其後は養君の沙汰もなかりけり」とある。
いずれも氏名については触れていないものの、『篤焉家訓(とくえんかくん)』は「九月十日山城守一服の弟何人これ有哉と御尋に付、七戸彦左衛門(重信)と申候て在所に罷り有り候由御書上、奥瀬内蔵介持参御城へ上る」と見えることからの推察に過ぎないが確率が高いと考える。
家老席の『雑書』によれば、このことは十月十五日条に記録されている。盛岡へ伝えられた日付である。しかし、『内史略』は『祐清私記』の記録を援用した上で、解釈を加え、「向後養子の願い取り次ぎのこと無用との御内意仰せ出さる旨、御聞き及びなされ、御舎弟方仰せ上げらる事も御差しつかいになとうんぬん、ひっきょう御愛憐に溺れ給ふゆえ、ご了簡違いになりたまう由、これによって御家も御一生限りと思し召し、御慎みもなく御行跡もよろしからずとうんぬん」と。
生死いまわにある人が、「御家も御一生限りと思し召し」過去に及んで「御慎みもなく御行跡もよろしからず」とは、ただ単なる中傷のほかない。実は重直の悪政を列挙する際、必ず俎上に上るのが、重直が目隠をして罪もない諸士を選出し、多数を召し放したとされる墨引き一件である。
しかし、この事件も人名精査によって判明するのは、前回に紹介した『極秘申上候』に散見する「人を多く殺害被成と申すものも候へども、誰の父祖非道の御殺害に逢いしといふ事もたしかにこれなき候」を裏付けるような虚構事件である。
■諸士分立して騒擾す
寛文四年九月十二日重直死去が幕府へ届けられると同時に、幕府老中より「御跡式いよいよ相違なく仰せ付けらるべく候間、御家中の者騒ぎ申すまじく」との申し渡しを受け、さらに「廿七日に至って老中稲葉美濃守より江戸詰家老三人が稲葉邸に呼び寄せられ、上意として申し渡されたことは「重直跡式については存命のうちに願があった通り相違なく忌明後に申し付ける。従って三人のうち一人は早々にまかり下り、諸士の騒擾(そうじょう)を仕置いたすように」とのことであった。
さっそく家老漆戸勘左衞門は江戸を出発十月八日に盛岡へ到着している(『秘記』『歴代御記録』山城守様御代)。
『祐清私記』が伝えている事件に関して詳細に傍証する記録は知らないが、毛馬内三左衛門次自譜によると「寛文四年九月公薨して嗣婚定らず、新故の諸士各奉載せんと欲すのところ、二三党に分かれ時論紛々たり、次自(毛馬内三左衛門)故党に在りて金鉄の義をもって連署してこれを将軍家の御大老酒并雅楽頭に訴えんとす。時に御家老中の制止によりて果たさず」(『参考諸家系図』巻十)と伝えている。
八戸弥六郎譜「寛文四年九月江戸に於て重直公御卒去、御家御相続の御男子なく候へども、公義より仰せ出され候には、山城守跡悪敷は仰せ付けられまじく候間、家中の者随分相慎しみ、追て上意を相待ち、領内静謐肝要の旨仰せ付けられ候ところ、御相続の御沙汰延引に付、御家中の諸士御相続の御人差し、公義へ願上申度旨徒党せまじき相談を企て、御普代新参二つに分かれ内々騒がしく候ところ、直栄思慮をもって騒動に及ばず。
同年の冬御遺跡(中略)翌年正月、重信公より公義御老中方より直栄并漆戸勘左衛門御用これある由にて呼ばせられ盛岡発足、二月八日江戸着、十一日御老中久世大和守殿阿部豊後守殿に出で候ところ、御登城後にて申し上げ置き(十三日またまた参上の節御逢い)酒并雅楽頭殿・稲葉美濃守殿御在宅にて御逢い、御両所仰せ出さるに、山城守殿病気己後家中の輩、そこつの願い等申し出ずべきと騒動かましき儀これありところ、弥六郎上意を守り同意つかまつらず、その騒動鎮め申す段、上聞に達し御感浅からず候。
家中より願い等申し出るにおいては、南部の家危事に候、その方ども仕方神妙に思し召され在国の陪臣へ登せられ御目見仰せ付けられ候儀先例これなく候えども、格別の忠義と思し召し候ゆえ呼ばせられ候」(『参考諸家系図』巻四)とある。
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