2005年 1月 12日 (水)        

■  〈盛岡ことば入門〉226 黒澤勉 「ずっとめ〜がらすぎだった」

 一六三、恋の言葉−すきだ・愛している・ほれる

 

 神代の昔から現代に至るまで、男と女は恋をしてきました。神様は、男が女にひかれ、女が男にひかれるように、互いに求めあうようにつくったのです。異性にひかれるのは人間の強力にして自然な感情であり、本能だといってもよいでしょう。その感情、本能は時や地域を超えて変わらないものですが、それを表す言葉は時代によって、また国や地方によって違いがあります。

 盛岡弁の恋のやりとりを聞いてみましょう。

 中津川に沿う道を2人の男女が歩いています。

 「おらあ、おめのごどすぎだ」男が突然、真剣な口調で言いました。

 「なに、おめはん。いぎなり、なにそうのすか(何を言うんですか)」女は驚いて言います。

 「たすかに、いぎなりそって、どでんすたがもしんねども(驚いたかもしれないが)、ずっと、めーがら、おめのごど、すぎですぎでなんなくてらったんだ(好きですきでならなかったんだ)」長い間、胸に秘めていた思いを吐き出すように男は言います。

 「そんたなごど、そわれでも(言われても)、おらぁ、こまる」

 「なにしてこまるのすか。だれがすぎなしと(人)でもいるのすか。おらぁ、こんたにおめさ、ほれで、いっつもかっつも、おめのごどばり、かんがえでるんだ。こんたなきもぢになったのぁ、はすめでだ(初めてだ)。な、おれどいっしょになってけろ。いっしょう、めんこがって、すあわせにしてやるはんて」男は拝むようにして言います。

 「なんぼ、ほれでるってそわれでも、なんともなんね。おらあ、このめえ(この前)、みあいすて、きめざげ(決め酒)のんで、よめっこさ、いがねばねぐなった。『おらあ、すぎなしとぁいる』って、そったんだども、『すぎづれ、なぎづれって、すぎなものどし、いっしょになっても、なぎわがれするんだ。それより、ちゃんと、まわりのしとぁ、せわしてけだしとど、いっしょになったほぁ、すあわせになるんだ』って、とっちゃんぁ、きめでしまったんだ。おら、よめこさ、いきたぐね。なして、おめはん、まっとはやぐ、そってけねがったのすか」女の目にいつの間にか涙も浮かんでいます。

 …さて、この恋の行方はどうなるか。

 それはさておき、この中に出てくる恋心を表す言葉を調べてみましょう。

 @すきだ・愛する・恋う

 相手に好意、恋心をもっていることを表す最も代表的で、一般的な言葉が「すきだ」という言葉です。盛岡弁では「おめのごどすぎだ」「おめばすぎだ」などと言います。「すぎだ」だけだと、ちょっと軽いので、「すぬ(死ぬ)ほどすぎだ」とか「すぎで、すぎでなんね(好きで好きでたまらない)」などと言わないと激しい恋心は伝わりません。

 「すく(好く)」という動詞は、平安時代は好色だ、多情であるとか、風流の道に心を寄せるとか、物事を愛好する、というような意味でした。それが近世になって、特定の人に対する愛情を表すようになったとされています。「すく」という動詞でなく「すきだ」という形容動詞を使うことが多いのは、瞬間的な行為でなく、持続的、継続的な心理状態をいうためでしょう。

 「すく」に関連して「愛する」という言葉を取り上げてみましょう。これは、もともと漢語で、漢文を訓読するときに使われたものですが、やがて和文の中でも使われるようになりました。

 『堤中納言物語』に「この虫どもを朝夕にあいし給ふ」という表現が出てくるのでわかるように、非常に気に入って一途にかわいがる、好意を行動として、特になでたり、さすったりすることをいったりしました。また、目上の者から目下の者に対して使うことが多かったようです。

 ところが明治時代になって、love(ラブ)の翻訳語としてこの「愛する」が使われるようになって、対等な関係での愛情表現にも使うようになりました。

 世代によって、また、人によって違いもあるでしょうが「愛する」は、私の語感では文章語で、日常の会話ではちょっと恥ずかしくて使えません。「愛してるよ」などと言ったことは一度もありません。

 ところが外国映画をみていると、いとも気軽にこの言葉を使っています。話題のドラマ「冬のソナタ」でも「好きだ」という言葉の次に「愛している」がよく使われていました。もしかしたら、今の若者は「愛している」などと平気で言っているのかもしれません。

 「愛する」を取り上げたら「恋」「恋う」という言葉を取り上げないわけにはいきません。

 「恋」は「目の前にない対象を求め慕う心情」であり「求める対象と共にいないことの悲しさや一人でいることの寂しさ」(『日本国語大辞典』)だといいます。なるほど、見事な説明です。

 変な言い方ですが、ともに抱き合っているカップルは愛しあってはいますが、恋をしてはいないのです。「忍ぶれど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」(平兼盛)という百人一首で知られた歌も、人に知られまいと思って隠し続けてきたわが心であって、ひそかに会っていたというのではないのです。恋とは離れている相手を思い、悲しく、辛く、やるせなく、寂しく思う心なのです。

 ここまで書いてわたしは「恋愛」ということの意味がわかったような気がしてきました。それは一人恋しく思うときと、会って抱き合うときの結びつきによって生まれる男女の愛ではないでしょうか。

 好きで、すぐに会え、すぐ話しあえる2人の間では「恋」が成り立たないと思います。ケータイやメールでたちどころに連絡が取れ、すぐ会える、一緒になれるのは便利ではありますが、恋は育ちにくい、といえましょう。

 それにしても「恋」という言葉には美しい、詩的な響きがあります。ですから、文章中に「恋しく思っています」「恋しています」とは書けても、日常語として「あなたに恋をしています」などとは言いにくいのです。(岩手医大教養部教授)


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