2005年 1月 14日 (金)        

■  〈古文書を旅する〉45 工藤利悦 「南部29代重信公の御事その3」

  ■南部二十九代重信公の御事(その3)

 一、そのころ御馬買い衆御下り、森岡に御座なされ候ゆえ、譜代の者ども必死に連判等を極めつかまつり候段、江戸へ密かに仰せ遣わされ候よし。これによって江戸留主居(るすい)召しなされ、このたびは山城守病死に付き、なお在所に家中の者ども騒動つかまつり候よし、密かに上聴に達し候、跡目の義は御寛戴をもってしかるべく仰せ付けられ候間、必ず騒動つかまつらず候よう、家中の者ども安堵つかまつるべく候。この段早々在所へ申し遣わさるべく段仰せ付けられ候。このこと十月七日八日のころ江戸より早打ちにて申し来り候よし。

 一、右の義に付き御家中二、三日静謐(せいひつ)の所に、また誰言うともなく江戸より水戸様庶子源次郎殿と申す仁ヘ南部家の御名跡に御立てなされ候はずのよし、公義にて既に相決め候よしを申し、これによって御譜代の諸士毛馬内三左衛門・奥寺八左衛門・野田弥右衛門・工藤権太夫・田中久太夫・帷子治右衛門以下の者ども、三左衛門宅へ寄り合い評定しけるは、南部代々の血脈をもって相続し、我々その禄を喰んで事数代なり、今度他姓を主人に取り、その禄を全うし妻子を養う時、ただ己が身上の栄華を思うのみにて何ぞ忠臣と言わん、たとえ国ともに亡ぶとも、その流れたる人を主人に取り立て、その人の禄を喰んでこそ譜代とは申すべくとて、また別して義心を起こし、もし領知を召し上げ候か、または源次郎殿御下りに相決まり候はばまず軍神の血祭りに御馬買い衆の旅宿に押し寄せ、彼の人々を打ち取り、心を一致に決めべく、かようにつかまつり候はば定めて八戸・上方組の者どもまで額にかん板はあるまじく、南部者と御沙汰あらば天下の逆心者と言われ、日本中に足を留めかね申すべく、これ畢竟(ひっきょう)の計なり。

 その後、七戸隼人殿と森岡之本城に残り置く人数半分をこもり置き、残り半分を花巻へ押し出し、中野吉兵衛を大将にして彼の所にて命限りの合戦をすべしと何れも評定を決め申すよし。

 一、そのころ風聞に、南部領知召し上げられ候か、または源次郎殿御下りにて譜代の者ども相従い申さず合戦に及び候はば、米沢の者ども後切りつかまつる候はずのよし、左候へば何万騎打って下り候ても定めて及び難く義に大乱にまかりなるべく候よし申す成り候。

 当夏米沢上杉継目のことにて領知の半分を召し上げられ候に付き、上杉殿申すにおよばず家中までことのほか憤りまかりあり候ことゆへ、これに内通つかまつり候へば、後より手合わせつかまつり候はずのよし風聞す。

 一、南部家中の者ども安堵つかまつり候ように名跡の儀は仰せ付けらるべく候間、家中の者ども騒動つかまつらずようつかまつるべくよし江戸より御内意これあり候よしに付き、いよいよもって新参衆大いに喜び、定めて我々内々願いの筋にこれあるべくよし喜悦とうんぬん。

 一、右騒動の段、隼人様聞こし召され、阿部治助・村田市郎左衛門をもって数度御制禁遊ばされ候、御譜代の田舎侍少しも不承引の由。

 一、同十月半ば毛馬内三左衛門以下の者ども数百人、白昼に白装束にて新山堂にて社前に参り候て、何れも盟約し神水を飲み大勝寺に(ママ)

 一、同十月半夜に入り亥の刻頃より終夜(よもすがら)辰巳(南東)の方に凶星出る、東方に大い成る親星一ッあり、西の方へ布引き候て小星数万あり、諸人これを箒(ほうき)星と言う。江戸並びに隣國にて南部星と唱え候よし。

 一、頃日仙台・秋田・津軽より故なく売人数人来り候、しかれども先規の外別制はこれなく候。南部弐拾九代大膳大夫重信公御世嗣の節、御家中の諸士連判願書の写し

 (以下、連判状の写しが添えられているが割愛する)  (「祐清私記乾」)

 【解説】この項は、盛岡における諸士の動揺を書き留めているが、いずれも『祐清私記』以外に記載する文書が見当たらなく、傍証するすべはない。

 「水戸様庶子源次郎殿」については、管見する水戸家系図には見えてこない。「米沢藩上杉家」のことは、上杉播磨守綱勝が寛文四年閏五月七日に享年二十七歳にて嗣子がなく死去したことに伴い領国が半減した話に起因しており、南部家の家臣にとっては他山の石になる。由々しき事態に映り、緊張感の中から派生した風説だろうと想像される。

 具体的にはこうである。綱勝の跡を吉良上野介義央の長男三郎景倫(後の喜平次綱憲・当時二歳)が相続した。綱憲の母は綱勝の妹であるから実の甥が相続したものであるが、「末期の養子はゆるされずといへども、かつてこひ申すむねあるにより、封地の半をおさめ十五万石をたまふ」(『寛政重修諸家譜』巻七四九)と伝えるように、遺領三十万石のうち相続できたのは十五万石のみになった事件であった。

 南部星については、内藤雅義「南部星」に『山鹿素行家譜年譜』を引いて「十月十日(太陽暦一六六四・一一・二七)軫(しん)の左割より西を指す」とある。

 軫は二十八宿の一つで「カラス座」のあたり、左割は「カラス座η星」。十一月に入り、動きが速くなり、八日「ポンプ座」、十日「羅針盤座」、十二日「大犬座」、十四日「ウサギ座」に到る。

 『国士舘日録』には「今月(十一月)上旬此星参宿の間にあり」とある。参宿は「オリオン座」、そのすぐ南が「ウサギ座」。彗星の尾は「オリオン座」まで伸びていただろう」といい、さらに「十月十日午前三時頃に東南東の方角から昇り、穂先は西に向けている」とも記述している。

 南部星に該当する彗星の存在は確認されるが、果たしてこの彗星を他領の人たちが「南部星」と呼称したかについては定かでない。

  ◇  ◇

 ■重直評に対する問題

 重直に対する批評は歴代藩主の中でも極めて悪い。例えば「父利直が福岡城に居った時に、重直は敢えて盛岡に滞在している。」(『祐清私記』)との評がある。いかにも親不孝であるかの印象をかもし出している。

 とまれ、利直は盛岡城の築城を切望してその事業に当たっていたことは周知のことではないか。父が福岡にいた時期、子が父に代わって築城普請の指揮をとっていたとは考えられないだろうか。指摘されていることを逐一精査すると、判然とするのは限りない中傷である。

 逆に言えば、いかに人望のない藩主であったかという一語に尽きる。その背景には江戸で多数の藩士を召し抱え、譜代の諸士をないがしろにしたという譜代諸士の怨念があると言えそうだが、そのために重直の実像は闇に葬られていると見る。

 ■重直不人気の原因

 藩士召し抱えの状況を中心に、重直と重信とを対比をすれば数値的に明らかとなる。以下はその概要である。

 重直は高十万石、重信は八万石。その治世は重直が三十四年、重信は二十八年、この間に召し抱えた人員は重直が三三〇人、重信は九二九人。一カ年平均にすれば、重直九・七人、重信は三三人。階層別に見ると、重直は百石以上諸士九四人、(うち江戸で召し抱えた諸士六五人)百石以下諸士一〇五人、足軽等一三一人。対して重信は百石以上諸士一二六人(うち江戸で召抱諸士四七人)、百石以下諸士三六一人、足軽等四三九人である。

 総じて言えることは、重直代に任用された諸士は多く中堅よりやや上位の階層。しかも江戸で召し抱えられた諸士が大勢を占めている。

 一方、重信代に召し抱えられた階層は譜代諸士の二三男が結果的に大勢を占めている。つまり、重直代に江戸で召し抱えられた諸士が藩機構の中枢に配置され、譜代諸士の多くは配下の立場に立たされたことを意味する。『祐清私記』の著者伊藤祐清もその階層の一人であるから、それ等の人達の立場を代弁していると理解する必要がある。にもかかわらず、この書は『南部史要』に至るまで、藩全体をとらえた重要史料と位置付けられ活用されてきたところに大きな誤解を助長させた嫌いがある。書き留められた記録上からの判断であり、それが総体的意見であったものかを含め、重直に対する大局的視点での再評価が、一日も早く行われることを望んでやまない。


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