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巽青年に対して与田青年は、初対面の時から家族ぐるみの歓待で迎えていた。次はその記念すべき出会いのようすである。
「むかしの、ガラス箱のショウケースと、大きなへっついのあいだの土間をぬけて座敷に招ぜられたわたしは、おもいがけない歓待にぶつかった。ムツゴロ、アゲマキ、タイラ貝、ガネヅケ、『邪宗門』や『思い出』でうろ覚えの有明海の珍味が、ちゃぶ台のうえに、ずらりとならんでいたのだ。おかあさんやねえさんの、こころづくしだった。といっても、やはり準一の差金だったのだろう。
『さ、さ。酒ば、いっちょ、あがらんの』すこし耳のとおいおかあさんが、若者は酒を飲むものときめてかかって、傍から一生けんめいにすすめてくれるのだがそのころは異端のピューリタンであるわたしは、それをことわるのに、へきえきし、且つくるしんだ。東北からついたば かりのわたしには、異国語である九州弁の親切は、わたしの宗門の規律を納得してもらうのに相当にほねが折れるのである。
ことばのちがう、邪宗門と邪宗門の出会いであった。」これはその出会いの時から四十年ほど後の回想であるが、巽先生は有明海の珍味の数々を記憶していた。
それから、おかあさんがすぐ傍にいるかのような書きぶり。この日のことは、よほど心に刻まれていたのであろう。そして御馳走ばかりではなく、巽青年はハッとするようなことを云われた。「そのころの準一は、『赤い鳥』と、白秋の詩の雑誌『近代風景』の花形だった。
『赤い鳥』ではもう、作品が七八編推薦されていたし、『近代風景』を加えると十編を上回っていた。『赤い鳥』推薦十回をとれば、作家として待遇するというのが建てまえであったから、新人作家といってよかった。『赤い鳥』に発表された『ほうぜよ』、『写真機』、『木鼠』など素晴らしいというと、『なにいっとるかん。
みんな、あんたの真似じゃなかか』『赤い鳥の奴ら、みんな、あんたの真似ばしちょる』という激しい返事がかえってきた。」巽青年はその頃、「水口」など最初はほめられていたものの、その雅調はたしなめられるようになって、悩んでいた。そんな時、準一の言葉を聞いて、身が引き締まるように思ったという。
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