2005年 2月 3日 (木)        

■  〈オークランドの旅人〜賢治と滝沢村〉121 岡澤敏男 「遠足許可へ改稿」

 ■「遠足許可」へ改稿
  賢治が親友の保坂嘉内にあてた一通の封書があります。大正7年6月20日前後に書かれたもので、保坂の母いま他界(6月16日死去)の消息を同人誌「アザリア」仲間の河本から聞いたあとに投函したものらしい。このなかで賢治は母への思いを珍しいほど赤裸々に告白しています。
 
  「…私の母は私を二十のときに持ちました。何から何までどこの母な人よりよく私を育てゝ呉れました。私の母は今年まで東京から向へ出たこともなく中風の祖母を三年も世話して呉れ又同じ病気の祖父をも面倒して呉れました。そして居て自分は肺を痛めて居るのです 私は自分で稼いだ御金でこの母親に伊勢詣りがさせたいと永い間思ってゐました けれども又私はかた意地な子供ですから何にでも逆らってばかり居ます この母に私は何を酬へたらいゝのでせうか。」
 
  このなかで母が「私を二十のときに持ちました」とは、賢治が生まれて五日目の早朝、花巻地方に大地震が起こり、お産したばかりの二十歳の母イチが「えじこ(嬰児籠)」のなかの賢治をかばうために、しっかり両手でえじこを抱え、上体を傾けてお念仏を唱えていた」という逸事を指しているのでしょう。

  謹厳な父の前で萎縮する賢治を「何から何まで」かばってくれた慈母のような母に心底より感謝しながらも、意地っぱりな賢治は母に素直な態度をとれなかったのです。

  それでも妹トシの看病のために母と上京したとき、宿屋の食事になれない母のために母の好きなラッキョウ漬を買ってきたり、看病疲れの母を神田の寄席に連れて行って慰労しました。

  また「なめとこ山の熊」の童話のなかで、「母親とやっと一歳になるかならないやうな子熊」が淡い月光のもとで交わす幻想的な会話に、母へのひそかな思いを託しているのです。

  こうした母とのたおやかな交情が詩編「母に言う」にも見られましたが、大幅に手を入れ、第一形態の詩稿の原形をずたずたに改稿し、母の姿を隠ぺいしたのです。

  その内容も「迷い道」「母の救い」のテーマを「迷い道」だけにしぼって「野歩き」の難しさをモチーフに変え、題名を「遠足許可」としました。これが下書稿(二)で、(三)(四)と推敲(すいこう)されて「遠足許可」の題名で生前「文芸プランニング」第3号(昭和5年11月)に発表されたのです。

   ■詩篇「遠足許可」(生前の発表詩)
 
ぜんたいきみは
野馬がかってにこさえたみちと
ほんとのみちが分かるかね?
おほばこと
センホインといふ草を知ってゐるかね?
おんなじ型の黄いろな丘
ずんずん数えて来れるかね?
地図にある防火線とさ
あとからできた防火線とがどうしてわかる?
泥炭地の伏流をご承知かね?
しまひは磁石の方角だけで
まっ赤に枯れた柏のなかや
うつぎやばらの大きな藪を
どんどん走って来れるかね?
そしてたうたう日が暮れて
みぞれが降るかもしれないが
さういふことも覚悟の前か?
はあ さうか


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