2005年 2月 4日 (金)        

■  〈古文書を旅する〉48 工藤利悦 「幕府より新山舟橋について書状」

  ■幕府より新山舟橋に付書状
 
  延宝八年三月、大久保右京殿内大井五左衞門へ、楢山七左衞門より相尋ね候新山舟橋の儀書状の写左の通り
  去る頃三通の貴札到着拝見候。まずもってますますご機よくご座なされ候むね、しごくに存じたてまつり候。次に貴様いよいよご堅固に勤めつかいなされ候由、めでたく申したてまつり候。大膳大夫様ご参勤前にてよきこと御用多くご座なさるべくと存じたてまつりり候。
  一、そこ元(盛岡御城下)町屋と足軽丁の間に門(穀町惣門)ご座候。洪水の時分通路、重きところにて往還なされず、諸役人難儀いたし候間、舟橋になされたく候。しかれども前々よりご座なくことに候間、いかが思し召し候由、ご内談召しくだされ候。少しも苦しまじく儀と申したてまつり候えども、私の了簡ばかりにてご返答申し上げがたく候に付き、右京亮へその段申し聞き、舟渡し川の由、舟橋になされ少しも苦しまじくむね申し候間、さようお心得なさるべく早々貴報申し上げべく候とこ、差し合いご座候て、延引まかりなり、山田外記殿にいろいろ折々に話し合いお噂を申すことにご座候。なお後刻の時を期して恐惶謹言(きょうこうきんげん)
    三月五日            大井五左衛門 判
        楢山七左衞門殿

  【解説】北上川に架橋する明治橋の八十メートルばかり下流(南方)に、かつて藩政時代に舟橋があった。新山舟橋と称し、風光明媚(び)な名所。盛岡八景の一景に数えられていた。

  当初、北上川の両岸、仙北町と新山河岸の間の往来は渡し舟により通行していた。この書状は、不便解消のため舟橋の架橋を想定し、幕府の要人に対して内々に相談した書状への返書である。
  ちなみに差し出した書状の文言(『盛岡砂子』)は次の通りであった。
 
  一筆啓上いたし候 しかれば大膳大夫(二十九代南部重信)の城下盛岡には、町屋と足軽丁の間に北上川がご座候、常々舟渡しつかまつり候。前々より橋を掛け申したくと存じ候へども、毎年洪水つかまつり候ゆえ、橋を掛け申す儀まかりならず、今に至たり橋を掛け申さずに候。右の通り人家の間にこれあり候川のゆえ、往還もしげくご座候。冬におよび申し候へば、水強くご座候間、舟橋につかまつり候へば、往還も自由につかまつり候と存じ、前々橋これ無きところへ舟橋につかまつり候儀、自分には(許可なく勝手に)まかりならず候や、世間の様子存ぜず候間、お尋ね申し候条、思し召し寄りを仰せ聞かせ下さるべく候、むずかしき儀ながら頼みたてまつり候已上

  二月六日     楢山七左衛門
    大久保右京介様御内
       大井五郎左衛門様
 
  まず登場する人物などからこの書状について迫ってみる。
  大井五左衞門は大久保右京亮の家臣、推して大久保家の用人であろう。一方の楢山七左衛門は南部家の家老である。藩の家老が用人に対して相談をするほどの大久保右京亮とは、どんな人物なのか。

  『雑書』延宝八年(一六八〇年)九月二十日の条に、当日舟橋が完成し、渡り初めがあったこと。併せて「当御後見大久保右京亮内大井五郎左衛門まで相談したうんぬん」と見える。これから後見つまり南部家の相談役であった人物と知られる。『寛政重修諸家譜』(巻第七〇九)大久保系図によれば諱(いみな)は教勝とある。

  寛文十年(一六七〇年)九月に大番頭から留主居にうつり、天和元年(一六八一)八月に辞職、翌二年七月七十歳で死去している。つまり、南部家の後見を務めていたが、幕府の留主居であったことも知られる。

  幕府の許可を得るには、本来懇意の老中に伺いを立てるのが筋。当時、南部家は大老堀田筑後頭正俊や上席老中である阿部豊後守正武と懇意にしていた。事の細大によらず、常に相談相手(『我覚集』)にしていた。しかも堀田正俊は、先代重直が養嗣子として迎えた勝直(入嗣後死去)の実兄という関係で親類に当たる。

  それならば大久保右京亮に相談をするより、堀田氏や阿部氏へ話を通すのが当然と思われる。にもかかわらず、留主居の大久保に相談したというのは、事の背景に何かあったのだろうか。

  ■大久保右京亮と南部家の特別な関係
  舟橋について記述する前に、大久保右京亮と南部家の特別な関係を述べておいた方が良いようである。

  大久保教勝の父は、大久保相模守忠隣(相模国小田原城主)の三男右京亮教隆。教勝には祖父忠隣は慶長十五年(一六一〇年)に讒訴(ざんそ)により改易(領地を没収)となり、その子である父教隆は連座して、はじめ南光坊天海へ預けられ、元和三年(一六一七年)さらに南部家へ移し替えられた過去を持つ。

  つまり、父教隆は十一年間盛岡に幽閉され、寛永五年(一六二八年)に父の無実が晴れて赦免となり、旧知三千石に復した経歴の人物だったのである。さらに言えば、教勝には弟圓蔵教正(初名村井新九郎)があり、教正は父教隆が江戸へ帰ったのち盛岡に生まれ、成長後に親の認知を得た上で南部家に召し抱えられた人物。このような経過から親交の両家だったのである。

  ■書状の狙いは権威付けか
  従って幕府の許可を得て架設されたとされる従来の説とはいささか異なり、『祐清私記』が記すように、舟橋は「御届なく 同九月二十日成就なり」というのが事の真相であったと思われる。舟橋は幕府に届けずに架けたのである。

  要するに、大久保氏が前面に出た舟橋創設の話には、領民に権威を示す狙いがあったと考えられる。

  ■舟橋が創設された時期
  北上川新山河岸へ舟橋が創設された時期は、諸説はあるものの延宝八年(一六八〇年)とするのが正しいようである。(『雑書』)

  面白いことに、舟橋を架設するに当たり相見積もりを取った記録が伝存している。橋の構造を知る上で興味がある史料である。

  その一つは総額金二百九十六両を要したと記している。内訳は一艘六両三歩の大船を十八艘、一艘二両一歩の中船を二艘、敷板が二百五十四丁、長さは三間と二間半だった。そのほかに大黒柱ほかの品代がかかっている。

  ほかにも記されたものがあるが、この数字とは三十二両三分八厘の差があると『篤焉家訓』は書き記している。

  舟橋を架けた理由については、越後の商人で勘内という人から「この川に土橋では増水に持たない、舟を並べ、その上に板を渡し、舟橋にすべき」と言われたことに由来す(『郷村古実見聞記』)とする説もある。ところが舟橋より前に土橋が架けられたという記録は見えない(『雑書』)。いかがなものか。

  ■土橋建設
  舟橋の完成を見た翌年(天和元年)、二月の洪水(『雑書』二十六日条)で橋は流失したようである。三月十日には参勤交代で江戸へ登り途中の松前藩主松前兵庫頭から、舟渡しの渡し守に心付けが下されたという記録があるからである。ことのほか、同じ年の六月にも舟が押し流されたとする記録がある。(『雑書』)

  そのため同三年(一六八三年)には土橋架橋の建設が進み、八月に渡り初めを行っている(『雑書』)。この時の総工費は五百四十一両三歩と一匁九厘一毛(内訳あり)と記録されえている(『御領分通分諸上納御金米銭雑記』)。

  当時、中津川の上の橋を新規に掛け直した際の費用は金二百四両と二分七厘七毛と計上しているから、ほぼ倍額の工費を要したことが分かる。(『同上』)

  開始時期は定かではないが、天和三年(一六八三年)からこの橋を活用する郷村に対し補修費対応として代官所別に高百石に幾らと橋料米(差がある)を賦課されていることが知られている(『同上』)。

  ■再び舟橋へ
  その後も土橋の時代が続き、宝永五年(一七五五年)前後から再び舟橋の時代となり、明治九年(一八七六年)に木橋に架け替えられて明治橋と命名されるまで、流失・建設の歴史を刻んだ。

  舟橋は、舟・金綱・おさえ柱・敷板からなり、橋の本体となる舟は、長さ約十一メートル、幅約二メートル、これを中島から両岸に向けて各十二艘、中島に一艘と合わせて二十五艘を横に並べ、金綱・ぶどうつるでつなぎ、これに敷板を渡していた。こうしてできた橋の長さは、約百三十メートルであったという(『盛岡の歩み』)。

  洪水の時には、舟は岸にたぐり寄せられたが、両岸に配置されていた水主には男意気の見せ場であり、万が一、舟などが流失した場合、川下でそれらを引き留めた者に時代により変動はあるが、褒美金が支給されている。

  「留舟壱艘壱貫五百文、掛り舟壱艘七百文、鉄綱百尋己上壱貫三百文、橋板壱枚弐百文」(天保八年)。現橋の元橋は昭和五年に着工、同七年に開通式が行われている(『盛岡の歩み』)。


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