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滝沢営業所を出発した岩手県交通の路線バスを待つ前九年2丁目停留所は、小高い丘に立つ大きなケヤキの木に守られている。
盛岡市の保存樹木に指定されているこのケヤキの木のおかげで、夏、バスを待つ間も日差しを避けてほっと一息付く。
冬は冬で、葉はないのに枝が下に雪のたまるのを防いでくれるのでバス利用者にはちょうどよい足休めの場になる。雨や雪が降っている最中でも、ケヤキの枝が屋根の役割をしているのか、停留所にはあまり雨雪が下りてこないので、傘を休めることもできる。
大木の根元には「敵見ヶ森稲荷神社」と鳥居に書いた小さな赤い祠(ほこら)がある。地元の古老たちは「ケヤキも神社もともに前九年役以来、1千年の歴史を見つめてきたことだろう」という。
学者たちが書いた郷土史関係の書を読むと、そういう文言は出てこないので、古老たちの言葉を参考にあちこちからケヤキを見るのはけっこう面白い。
大ケヤキの木は遠くから見るとキノコのホウキダケかマイタケの一房を超大型化したように見える。前九年ばかりではなくその周辺の町からも見晴らしがよく特徴的な景観をつくっている。
よく見えるのは国道46号から。特にJR東北新幹線とIGR線の間のガードのあたりからは館坂方面に向かう車の左側車窓にひときわ高い木立が目立つ。
前九年役(1052〜1062年)の戦況についてはさまざまな論考や言い伝えが伝わっている。
安倍一族が源・清原連合軍を相手に、最後の決戦を挑んだのが盛岡・厨川柵。中でも最大の激戦地となったのが当時、雫石川沿いにあり川をはさんで源・清原連合軍と相対峙(じ)する位置にあった天昌寺といわれる。
住宅地化が進み最近では交通の便の良い幹線道路沿いにはマンションなどの人家が建ち並ぶ。その町並みを隔ててさえ敵見ヶ森は遠くからでも見える。それは安倍館町の一ノ倉邸から見ても同じである。
敵見ヶ森に今生えているケヤキの木は1千年近くもの樹齢を誇っているから、どこから見ても目立って見えるのかもしれない。
敵見ヶ森という地名、道路より神社の位置が特別に高い所にあることから見て、この森が前九年役時代から厨川地区のランドマークだったことは容易に想像できる。
前九年役のてん末を書いた塙保己一の「陸奥話記」をはじめ、多くの歴史書などには前九年役の終盤戦で安倍一族は女性たちに透き通った絹の衣服(軽羅)を着せて高い所で歌い踊らせ、敵軍の将兵を挑発させたことが記録されている。
歌い踊る場所といえば高い足場を組んで造られたステージが考えられる。しかし、厨川柵の周囲に掘られたから堀には源・清原連合軍によって破壊された民家が投げ込まれ、放火されて柵内が混乱を極めていた最中のはずである。
いくら「余裕の安倍一族」でもこのような戦況の最中に、わざわざ陣中に高楼を設けてステージを造る余裕はなかったろう。もともと天然のランドマークとなっていた小高い土地を利用してそこにステージを設けたとみる方が無理がない。
■前九年役への視線
盛岡の前九年地区が前九年役終結の地として地元の人たちに意識され、話題をにぎわしたことが過去に2回ほどあった。
初めは盛岡市が市制施行100周年を迎えた1987年前後。
「盛岡市の歴史は、甲斐の国(今の山梨県)出身の南部氏によって盛岡城が築かれて以来の400年やそこらのものではない」という市民の間で郷土史の見直し運動が起きた。
2度目は1993年前後。NHKが日曜夜の大河ドラマに、盛岡市在住の作家高橋克彦氏原作で安倍一族から平泉藤原4代までの東北古代史を取り上げた「炎(ほむら)立つ」がテレビ放映された。
前九年役を中心とする時代の東北地方に全国の視線が集まったのを機会に、地元の人の手で自分たちの住む地域の歴史を知ろうと、呼びかけ住民による地域史研究の活動を今も定期的に継続している女性がいる。
前九年2丁目に住む大村みつ子さんがその人。郷土史研究グループひ・ストーリーのリーダーでもある。
ひ・ストーリーの活動は最初、彼女の自宅付近にある西厨川地区活動センターなどを拠点にしていたが、今は南青山町の西部公民館で活動している。最近の彼女は郷土史研究のほかにガーデニングにも取り組んでおり、自宅にはオープンガーデンもあるという。
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