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初対面の巽青年に対して、準一は楽しい話ばかりをしたのではなかった。
準一は「家は心中の血統でのう」と、兄が情死した話をし、
「そりばってん、吾も自殺して、死のごたる」
と語ったという。その時のことを巽青年は次のように記している。
「わたしは、白秋先生の伝言を思い出して、そんな準一にいった。
『白秋先生は、夜学へでもいって、勉強する気なら、東京へ出てこいって、いってたよ。』
準一は勤めていた小学校をやめて、東京へ出ようとしているらしかった。それで、白秋先生へも、手紙を出していたらしい。九州への途中、上野谷中の先生のお宅にうかがうと、わたしは彼への伝言を頼まれた。彼は、とびたつように嬉しがって、特徴のぎょろつく大きな目をかがやかした。反対に、誰ひとり友人のいない久留米へのこるわたしは、さびしかった。あるいは、怠けもののわたしは、そのころのこころの支えである『赤い鳥』や『近代風景』への投書はやめていたけれども、いまその雑誌の花形である準一が、白秋先生の翅の下へ飛びたってゆくことが、ねたましく、うとましかったのかもしれない。」
初対面ですぐ意気投合した準一に、巽青年は白秋からの伝言を伝えつつ、そのよろこびようにねたましさを感じたという。
これは、せっかく久留米にはやって来たものの、巽青年はその不安定な生活に対して、ひどく落ちつかぬ思いを抱いていた、ということであろう。またそれは、自分も白秋の傘下に集いたいという願望が強くなっていたことを推測させる。
この昭和二年の『赤い鳥』十月号に、巽青年は次の作品を発表した。
きりぎりす
青がやたゝんで、今晩は、
旅に立ちます、きりぎりす。
月の光に濡れながら、
ひとり行きます、野菊はら、
セピアのコートに、ほそいすね。
すってをります、ひそひそと。
ごきげんよろしう、またの秋。
待ってをります、こゝの家。
まだ方向づけの定まらない当時の心境と、キリスト教会での自炊生活とを考えてみると、一年限りのいのちのきりぎりすに惹かれた、当時の巽青年の気持ちがわかるような気がする。
今晩、旅に立つというが、巽青年が日詰を出たのは吹雪の夜、それも一人のことであった。「セピアのコート」などという洒落たものではないが、それでも中折れ帽子に雪の高下駄を履いて、「またの秋」を期しての旅立ちであったのである。これはおのれの姿と故郷を思う童謡であった。
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