盛岡観光コンベンション協会(斎藤育夫会長)の新春賛助会員セミナーが3日、盛岡市盛岡駅前北通のホテルで開かれた。作家の中津文彦さんが義経北行伝説の真相を推理した。70人余りが参加した。
数多くの伝説を残しながら、実際の人物像は謎の多い源義経。「厳しい徴税に対する鎌倉幕府に対するえんさ、反幕府の抵抗者のシンボルとして多くの義経伝説を作った。数の多さはえんさの声がいかに多かったかのバロメーター」と中津さん。
義経の人生を16歳までの少年期、奥州での6年間、平家打倒に活躍した5年間、逃亡期の4つに分類する。「少年期の話は9割以上が作り話。奥州の6年間は空白で全くといっていいほど伝承がない。平家打倒の活躍は史実に近いもの。逃亡期は謎が多く鎌倉政権の思惑が絡んだ話が入れられている」と分析した。
源平合戦の呼び名、頼朝との不仲で追われることになったこと、北行して死なずに生きた−という3点については否定する。「頼朝の挙兵に参加したのは平氏がほとんど。平氏の清盛打倒のための平平合戦になるはず。ただ義経の軍は生粋の源氏。義経の活躍で源平合戦になった。兄弟不仲説は義経の活躍が余りにも大きく、そのまま鎌倉に迎えるとがい旋将軍になるため、北条一族の策謀により阻止された」と推理する。
北行伝説を元に推理を進め、藤原秀衡が義経に奥州の兵を任せ、鎌倉幕府の打倒を考えていたとする研究者の説を紹介した。「北行伝説は密かに平泉を脱出し津軽に逃げるとなっているが、もう一つ残留伝説をたどると宮古、八戸、野辺地に義経が信頼の置ける家臣を残し、脇野沢村に開村する伝説がある。信頼できる家臣を残し、情報伝達網を構築していたのではないか。平泉まできて逃げるということは絶対ない。何か目的があったはず」と、鎌倉政権打倒の準備だったと推理した。
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