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■南部御領内往還並木松御植立事
一、南部廿八代山城守重直公は、明暦三丁酉(ひのととり)年(一六五七年)正月十八日十九日の江戸大火事に付き、諸大名御いとま下され、重直公三月朔日(ついたち)江府を御発駕、同十五日御下着。
郡山より津志田まで御出、御領内の街道曲がり多く、悪しく候間、新道に御直しなされたく仰せ出され、もっとも街道の両脇に松を植え、日光街道のようにつかまつるべく仰せ付け、花巻御代官、盛岡・郡山・雫石の方は日野左近兵衛何某、盛岡より奥筋は工藤左馬之介・町野弥市右衛門これをこうむり、並木の松を植えし。 (「祐清私記乾」)
明治九年(一八七六年)、明治天皇が東北地方を巡幸された折の記録「東巡録」は、紫波町日詰から盛岡の区間で、南北一直線に走る並木を評し、「郡山より盛岡に至るの間、一路直(なおし)にして髪の如し、路を夾(はさ)む行松、蒼翠(そうすい)整然、内地諸方、未だ観ざる処」と記載している。
蒼は青、翠は緑。松樹二百二十年の巨木の並木が織りなす景観は、まさに全国一と激賞した一文である。
本文は、全国一と激賞されたこの街道がどのような動機、経緯で建設されたかを記述したものである
明暦三年(一六五七年)正月十八日・十九日、江戸は、みぞうの大火に襲われ、桜田門外にある南部家の上屋敷も類焼した。
「火事と喧嘩(けんか)は江戸の花」と言われるほど大火の多い江戸だったが、この年の大火は本郷の本明寺より出火、死者十万人を超したと伝えられている空前絶後のものだった。由井正雪の残党による放火との噂(うわさ)もあったが、世にいう八百屋お七、悲恋の末の火付けとして知られている振袖(ふりそで)火事だった。この時、被災者の霊を慰めるために建立されたのが回向院である。
幕府は類焼した諸大名に対して帰国を許した。これによって時の藩主重直(在任一六三二年から一六六四年)は二月下旬に暇(いとま=将軍家に帰国のあいさつ)を済ませ、三月一日に江戸表を出発、同十五日に盛岡城に帰城している。
その折、郡山より津志田町まで徒歩で通行した時に、曲がりくねっている道路の改修と日光街道に倣って並木を植えようと考えたのが動機というのが本文のあらまし。
■異説は存在
ただし、やはり異説はある。『篤焉家訓』は同説をとっているが、『奥南旧指録』や『郷村古実見聞記』『聞老遺事』は明暦四年説を掲げている。帰国の理由を振袖火事としているからには、単純な誤りであると見たいのだが、伝える役人の氏名には諸所に異同がある。
『奥瀬家日記抜書』万治二年(一六五九年)三月五日条に「去年道筋通りに松・杉植え候、枯れ候や見改め、枯れ候はば植なし候様にと、御徒頭池田先右衛門に御徒二人を添え、盛岡より鬼柳まで今日遣す。植え改めのため遣し申すべく三上勘九郎・本堂杢兵衛、この二人を遣す、但、御持筒の者(同心)二人を付け遣す」とある。
理由付けはともかく、明暦四年説を裏付けることを注視したい。
当の『祐清私記』でも「様々取集書事」の条には「万治二年の春、江戸街道松植える。奉行工藤助五郎・遠藤嘉右衛門等也、但、これは見前(みるまえ)より手前ばかりなり」とする異説を載せている。
『奥瀬家日記抜書』万治三年二月十四日の条には「道中両脇に植えなし候松ちいさく候間、一間か一間半の松を一間に一本づつ植えさせ申すべく由、花巻・郡山・沼宮内・福岡へ状をもって申し遣す」。『雑書』の同月十六日の条には「道筋両脇に松植させ候奉行、盛岡より中山まで福田六之助、盛岡より石鳥屋まで四戸弥右衛門、この二人今日申し付け遣す」、万治四年八月十七日の条には、盛岡より中山迄の道筋の脇に植え候松、枯れ候か植うさま悪しき候はば、差図候て植させ申すべく由、工藤権太夫・田中久太夫、御歩行矢口庄左衞門、御小与中里半九郎 横濱杢右衞門に今日申し付ける。但、道狭き所は脇ひろげ植え申すへく候、岩など候て植え候事ならず所は、そのまま差し置き候様にと申し付け候」。その他、細かな指示が随所に散見する。
■「日光街道にならった」とは、こじつけ
一方、これら諸説よりやや早い時期、承応三年(一六五四年)頃から領内各地へ役人を派遣し、改修工事を実施(『雑書』)していることが見える。
日光街道にならって街道へ並木を植えたとする説については、日光街道は杉並木。奥州道中には基本的に江戸から松並木が続いている。これらを勘案するならば、突発的な発想と受け止められかねない一連の説は、実は附会の説。長期的な実施計画に基づいて建設工事がなされた可能性が高いと思えてならない。
盛岡以北については、当初、野辺地まで柳を植えたことが『雑書』に見える。その後、時期は不明であるが松並木に植え替え、さらに松に添えて漆樹を植えていたことが知られている(『雑書』)。
雫石・鹿角街道など、主要な脇街道にも松並木はあった。鹿角街道・七時雨の山中には今でも現存するが、雑木林の中に整然と級(まんだ)の樹林が立ち並び、旅人が山中に迷い込まない工夫が施されていた個所もある。
■徹底した並木の管理
『山林雑記』によれば、凶年などには並木の樹皮を食料にした。これで立ち枯れる例や、並木があるために日陰が出来て農作物に多大な被害を及ぼすといった例もあったらしい。しかし、旅人のためもあったが、野火留めなど重要な施設であった。
雪枯れ、風雨による被害など管理・対策などは山奉行や植立奉行の重要な任務であった。その労務は村方の負担であり、道普請は雪解けを待って行われる慣習であった。海道並植立面附帳(『淵沢定行文書』)は奥州道中石鳥谷附近の並木に関す管理実態を伝えているが、一本一本に管理者が割り付けられていることが知られる。
西 川(側)
北左衛門領
一、壱番 藤八印
桂源五衛門領
一、弐番 与十郎印
東かわ(側)
桂源五右衛門領
一、壱番 与十郎印
北左衛門領
一、弐番 助市印
(中略)
〆 百三拾七本
右の通、海道の並松、堀様・植様共に村限りその場所において委細仰せ渡されるの趣を、畏み奉り植え立て仕り候間、壱本限り木札へ名本(なもと)を相印(しるし)、面付帳を指し上げ申し候以上
延享四年三月
八重畑村花輪七左衞門領組頭
清 八 印
同領肝入 惣左衛門印
同村中野忠左衛門領組頭
市兵衛 印
(下略) 拠『石鳥谷町史』
実は、これは本街道である奥州道中に限ったことではなく、鹿角街道でもその例が知られている。並木の樹木が枯れた場合(焼き枯れた場合を含む)、幕府の規定では売却による利益は幕府の収益とされたが、盛岡藩では管理していた百姓に下される仕組みであった。
このような、徹底した樹木の保護・管理も、維新後は新政府内に一里塚ともに無用として除去する風潮が生じ、明治二十五年に内務省が調査した段階では、岩手県内国道の並木は山間部では皆無、平坦地でも五五%に減少。県道においては全区間の七%に留まっていたことが岩手県より報告(『岩手県並木史』)されている。
すさまじい勢いで濫伐されてしまったことが垣間見える。
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