2005年 3月 5日 (土)        

■  〈たきびの詩人巽聖歌〉106 上京6

 巽先生の青春彷徨。
  それは大正十二年、十八歳の時の出郷に始まり、横須賀海軍工廠勤務、時事新報社編集ののち二十歳の時いったん帰郷。ふるさと日詰では岩手銀行に勤めていたが、昭和二年、二十二歳の時には久留米の日本キリスト教会に転じ、翌昭和三年、白秋の勧めに従って再び東京に出るまで、およそ四年間にわたる、変化に富んだ日々であった。

  東京に出て、それからは文学ひとすじの道が始まったことになるが、巽先生の一方に片寄らない、広い豊かな感覚は、こうした振幅の大きな生活の中にはぐくまれたのかと思う。ほんとうに、海軍工廠での細かな給与計算事務と時事新報社での雑誌『少年』編集とのあいだには、そのしごとの質において、天地の開きがあった。

  それは数字とイメージとの違い、あるいは事実の羅列と文章構成との相違、ということであり、対人関係にしても、職工仲間とのつきあいやら規則づくめの職場から、新聞社ではむしろ即決の判断力がものをいい、その上に組み立てられた人間関係といえる。

  そのような懸絶した二つの世界で暮らして後、二年間ほど巽青年は日詰で英気を養った。日詰ではキリスト教会に通って佐羽内牧師による洗礼を受け、日曜学校などの世話役に携わった。ここで気がつくのは、巽青年の人なつこさであろうか。

  そういえば、日詰では銀行の路地一つ隔てた近藤家の茶の間では、時ならずせっせと鉛筆を走らせてメモ書きをしていた。時事新報では『少女』編集長の家に下宿していたし、むろん新報社主幹の安倍氏には厚い信任があった。横須賀海軍工廠では、すぐに左翼バリバリの作家に見込まれて、それでかなりに左傾した体制批判の詩をつくった時期もあった。

  なんというのか、巽先生にはふわっとした温かい空気があって、いつの間にかいっしょに笑っているような、安心していられる雰囲気があったと思う。これは昭和二十三年のことであるが、巽先生と姫神山に吟行会に行ったことがあった。

  すると、姫神の緑の草原を歩きながら、翁草の穂に目を留めて、先生はその名を言い、またいくつかの植物の名を言った。それはいつの間にかわたしといっしょに歩いていて下さって、さっきの会話の続きのような具合である。わたしはその時林科の学生で、植物については知らないほうではない。しかし先生はよく知っておいでで、なにかそうした植物にもとからの温かいつながりがあるようなようすであった。

  よくご存じでいらっしゃる、というと
  「白秋はね、とてもよく知ってたよ。わ
  たしはとても及ばなかったね。」
  そういって、笑っておいでであった。先生にはもともと、そのものを大切にする、そんなところがおありのようである。それが詩人の心、といったらよいのか。青春彷徨の日々、そのようにして巽青年は暮らし、さまざま経験をされたとわたしは思う。


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