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■観武ケ原に残る石碑
工兵、騎兵両隊による大演習の際に盛岡を訪れ、統監を務めた大正天皇(当時は皇太子)は、今の盛岡市月が丘からみたけまでの広い練兵場を「観武ケ原」と命名した。その記念碑を今のみたけ地区に残したという。しかし、筆者はいまだにその所在を確認していない。
青山、月が丘、みたけの各地区を「昔、練兵場があったとこ」「工兵隊のあったとこ(兵営跡)」という言い表し方のできる地元の古老も次第に少なくなってきた。
しかし、よく気を付けて見ると青山、月が丘、みたけの各地区にはけっこう石碑が多く残っている。青山2丁目地内の県営体育館前にある大正天皇をはじめ、皇族御手植えの樹木の前にある標柱もその一部である。
ダイエーシティ青山の東側を北に向かうみたけ緑道と呼ばれる通りには「燕航空隊跡」と書いた記念碑があり、ダイエーシティ青山の駐車場から西北に歩いて2〜3分のところに月が丘2丁目市営団地の中の小高い丘にも石碑がある。
碑面には「大元帥陛下御野立所聖蹟」と書いてあり、揮ごうは陸軍大将南次郎書とある。1932年(昭和7年)に建立とのことだが、盛岡市の歴史書によると大元帥陛下というのは、大正天皇ではなく昭和天皇のようだ。
昭和天皇も1928年(昭和3年)に盛岡で陸軍の大演習が行われたときに、盛岡を訪れている。月が丘2丁目の石碑はそのときの記念に建てられたものではないかと思う。
青山1丁目地内の国立病院機構盛岡病院の敷地内に、工兵第8大隊を記念する小公園がある。園内にはかつての隊員たちが戦後、自分たちの技術と浄財を持ち寄り記念公園を造って盛岡市に寄付した経過と趣旨を書いた記念碑が建っている。
石碑も最近は石の風化が進み、碑面の文字が読みづらくなっているものも少なくない。せっかく残った記念碑ならば、今のうちに適切な保存策を施し、町の昔を知っている人々が健在なうちに歴史の確かな証拠として残しておいてもいいのではないかと思う。
青森県弘前市から仙台を経て工兵隊が移設され、騎兵旅団が新設されるなど、盛岡市の一角に大規模な軍隊の施設が開発されることになった陰には、盛岡市民挙げての大きな期待があった。
当時の盛岡市長大矢馬太郎、北田親らは厨川、滝沢両村の土地87万ヘクタール余りを3万5千円で買収し、時の政府に献納したという。
■軍都盛岡の光と影
盛岡市の官民挙げての熱心な運動を受けて招致された旧日本陸軍の工兵、騎兵両部隊はその後、盛岡の街づくりに大きな働きをするようになる。
工兵隊が転営して2年後の1910年(明治43年)9月、盛岡地方を襲った豪雨で中津川、北上川がはんらんし、中津川3橋(上の橋、中の橋、下の橋)や明治橋をはじめ民家69戸が流失、66戸が全半壊、1300戸余りが浸水した水害の復旧に工兵隊が活躍した。
翌年には中津川の護岸工事が行われた。北上川の夕顔瀬橋を架けたのも工兵隊だったという。夕顔瀬は流れが急で橋を架けるのが難しく、島を築いて橋を守るような苦肉の策が藩政時代には採られたほどである。
工兵隊の隊員を総動員しての人海作戦と、ほとんど採算性を度外視したといってもよいほど、材料や工具を惜しみなく使いきった工事の結果できた、丈夫な鉄筋コンクリート製の橋は1992年(平成4年)まで半世紀以上もの間、主要地方道盛岡和賀線を支えた。
上堂1丁目からIGR馬頭踏切を経て、青山2丁目地内で県道盛岡滝沢線とアクセスする通称桜並木という市道も、旧工兵隊が盛岡に駐屯を始めた早々に造ったという。
「もりおか物語」の中でも「工兵隊の仕事だけあって当時の盛岡にしては珍しいほど立派な道路だった」と子供時代の印象を語っていた地元の古老の話が収録されている。
第2次世界大戦が日本の無条件降伏によって終結した1945年(昭和20年)の3月、東京を焦土と化した米軍の焼夷(しょうい)弾による大空襲は盛岡にもあった。
東京大空襲は旧日本軍の戦力を下から支えていた中小企業の家内工業が密集していた下町がターゲットになった。盛岡の大空襲は軍隊を間近に控えた盛岡駅前がターゲットになった。
盛岡の大空襲は旧日本軍のお膝元で行われたため、被害の状況が公表されることなく、わずかに被害を経験した市民によって口から口へと密かに伝えられるにとどまった。
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