■ 〈古文書を旅する〉56 工藤利悦 奥州仕置きで領地を没収された稗貫氏
|
■花巻御城のこと
花巻御城 稗貫郡 南は川口村、西は万丁目、北は花巻の三邑(邑は村のこと)の間にあり、昔古は鳥谷崎の城という。天正末(天正は二十年=一五九二年=まで)方、花巻と呼び来る由。往古に誰人の築くということを伝えず。
当郡は建久二年(一一九一年)八月、山影中納言為家の嫡子参河中将為重が、頼朝公より拝領すという。故に稗貫殿と号すという。稗貫左近進義賀は室小路大納言家房の末流、この年頼朝公は征夷大将軍に任じ、中興武将の始めなり。寛延二巳已(つちのと・み、『祐清私記』が成立した年か)年まで五百五十八年になる。天正十八年(一五九〇年)三好黄門の御先手・浅野弾正長政下向の節に没落。この節の城主は稗貫孫二郎廣忠というなり。
天正十九年辛卯(かのと・う)浅野弾正少弼長政の御差図にて北主馬へ八千石をたまわり、花巻の城を守護仰せ付けられ候て住居。主馬秀直は北尾張信愛の次男なりという。城主になりて後、早世せらるるという。その跡を老父移住せらるる。老いの後、落飾、松斉と号す。慶長十八年(一六一三年)癸丑(みずのと・うし)八月十七日に卒す。法号節叟忠公居士、花巻雄山寺へ葬る。
この時既に信濃守利直公の御代(信直の嗣)なり。御国腹(側室)御二男彦九郎政直公を城主となされ、和賀・稗貫の内にて二万石を進ぜられ当城へ移さる。政直公は寛永元(一六二四年)甲子(きのえ・ね)年十二月二十三日に卒す。二十六歳。牌名は天岩宗有、導師は報恩寺梵積、改葬せり。(「祐清私記乾」)
【解説】この項では花巻城(はじめ鳥谷ヶ崎城)の城主について、その変遷を伝えている。
鎌倉時代、建久二年(一一九一年)に、稗貫氏の祖とされる山陰中納言為家の嫡子藤原為重が稗貫郡を支配して以来連綿と相続していた。
時代は下って天正十八年、天下統一を図る豊臣秀吉は、相模国(静岡県)小田原城主北條氏政・氏直父子を討伐のため、小田原に陣営を集結させた。このとき、豊臣氏は東北地方の諸侯に対して参陣の檄(げき)を飛ばしたが、稗貫氏をはじめ、諸般の事情により出陣しなかった諸家は所領は没収された。これを奥州仕置きと言う。
稗貫氏および、同じく滅亡した和賀氏らの旧領は、南部信直の領有に帰するところとなり、信直は北尾張信愛の二男北主馬尉秀愛を抜てき。八千石をもって花巻郡代に据えた。これは浅野長政の推挙によるものであったという。
稗貫氏ははじめ小瀬川城に入り、のち諸説あって判然としないが、享禄年中(一五二八〜三二年)に十八ヶ城(『奥々風土記』)へ移り、さらに鳥谷崎の城へ移転した。「鳥谷崎城は今花巻城なり」(『郷村古実見聞記』)という。
北主馬尉が郡代であった期間は、その死を慶長三年(一五九八年)とする説もあるが、天正十九年の九戸騒動に際して一戸城に討死したとの説等もあり真相は不明である。
郡代職は老親信愛に継承されたが、慶長十八年(一六一三年)八月死去した。享年九十一歳と伝える。信愛が松斉と号したのは慶長四年に信直の死去に際して落飾したことによるもの。
松斉亡き後を、利直は庶子政直に稗貫郡二万石を与え花巻城主に据えた。寛永十八年(一六四一年)に政直が死去したあとは城代制となった。
いま少し立ち入って見るなら、三好黄門とは豊臣秀吉の近親で養嗣子であった豊臣秀次のこと。秀次は三好吉房の子、のち三好康長の養子となり三好信吉と称した。のち養家を出て秀吉の許へ走り、その養子となり天正十三年(一五八五年)に中納言(黄門は中納言の唐名)、同十九年徳川家康とともに奥州仕置軍の総大将を勤め、翌年関白。文禄四年(一五九五年)高野山に移され自刃。妻子のほか多くの側室が京都三条河原で処刑された。享年二十八。
■稗貫氏の出自
稗貫氏の出自については、既述の為重説があるほか、稗貫氏嫡流と称されている万丁目家の伝は、藤原大隅守盛基は頼朝の奥州攻略に従軍して軍功を挙げ、稗貫郡を給せられ、天正十八年に滅亡した耀家まで十八代と伝える説(『伊達世臣家譜』巻十四万丁目系図)や中納言藤原山陰の末裔伊達朝宗(仙台伊達家の祖)の四男為家が建久二年(一一九一)に稗貫郡五十三郷を拝領したとする説(『伊達世臣家譜』巻十六稗貫系図)、伊達朝宗(鈴木蔵人朝宗とある)の嫡男常陸介宗村(伊達入道念西)の四男大和守広重説(『岩手県史』所収瀬川稗貫系図)、山陰十一代足立民部丞兼盛の子足立右衛門尉遠助の子鈴木次郎広家説(『奥南落穂集』)、その他など仙台伊達家の庶流とする諸説が錯綜して定説はない。
しかし、近年の研究では中条氏であるとする説が主流である。
中条氏は武蔵七党の横山党小野氏の流れをくみ、武蔵国埼玉郡(埼玉県北埼玉郡)小野保を本貫の地とした御家人。小野氏系図(「続群書類従」巻第一六六)によれば、野三太夫成任の二男中條盛尋に三子あり、嫡男を藤次出羽守家長、二男を苅田平右衛門尉義季、三男を左衛門尉実広とし、嫡男家長の系は家衡−時家−頼衡−出羽判官と相続。
南北時代のことだが、建武元年(一三三四)四月晦日付源貞綱書状には糠部郡の闕所地、一戸・八戸・三戸を南部又二郎・戸貫出羽前司・河村又二郎に預けるとする記述が見え、同年十月六日付北畠顕家国宣(『南部家文書』)には、中條出羽前司時長が南朝方武将として散見する。(興国二年=一三四一年=北朝年号)
四月二十日清顕書状には稗貫出羽権守(『結城文書』)があって、いずれも同人、かつ小野氏系図に見える景長の子供と勘考されている。
時長は稗貫郡の郡地頭職であったらしい。のち貞和二年(一三四六年・北朝年号)を下るころのことだが、奥州探題大崎氏の旗下に入った。『余目旧記』は外様大名の身分秩序を示して「伊達・葛西・南部三人は何事も同輩座す、一間半下がり留守・白河・蘆名・岩城。桃生・登米・深谷・相馬・田村・和賀・稗貫などは二間□(半か)さがり候」と書き記している。稗貫氏の処遇位置がうかがえる。
また、天文二十四年(一五五五年)には大和守義時は家臣五人、十二丁目下野守・万丁目・駒牧内蔵助・杤田出雲守・湯口大蔵丞を引き連れて上洛し将軍足利義輝に拝謁している(『蜷川家記』)。居城は当初小瀬川にあったとされるが、花巻城(はじめ鳥谷ヶ崎城)へ移転した時期は不明。
中條盛尋二男義季の跡を義行−泰義−盛義と続くが、『和賀家文書』(東北大学所蔵)裏書系図によれば義行は和賀総領職となり和賀三郎左衛門尉を称したとし、稗貫・和賀両氏は同族であったことを伝えている。
『仙台世臣家譜』によれば稗貫氏に限ったことではないが、仙台藩士諸家の家系が伊達家系の中に組み込まれていた例が多く、山陰中納言末裔うんぬんとして流布している稗貫氏系図も典型的な事例のようである。『奥南落穂集』には稗貫氏旧臣の一端が記載されてあり、興味のある方は一覧をお勧めする。
|
|
|
|
|
|
|