■ 〈オークランドの旅人〜宮沢賢治と滝沢村〉130 岡澤敏男
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■アダムとイブの原罪
大正6年(1917年)10月の一夜、賢治が休息した柳沢の宿の隣室にたまたま訪れてきた男への関心は、大正13年の成立とみられる短編「柳沢」に「旭川の兵隊上り」の男として虚構されました。
その後、賢治はその男をさまざまな人物として作品化しながら、その正体を追い続けていきました。そして昭和8年(1933年)9月、永眠する直前の文語詩〔そのときに酒代つくると〕において、ようやくこの男の正体が明らかにされるのです。
このように「柳沢体験」は多数の作品を派生させ、時空をこえながら一人の男の正体を追い続けた「賢治文学の全体像を俯瞰できるまれな作品の一つ」(榊昌子著『宮沢賢治「初期短篇綴の世界』)といってよいのでしょう。
だが大正6年10月の「柳沢体験」を文学として虚構させる起爆剤となったのは、明らかに大正8年7月に発生した「滝沢の女房殺し」事件でした。
この衝撃的な事件は、稼業の店番にうつうつとする賢治の心に突きささり、友人保坂嘉内に「私はいまや無職、無宿のならずもの」で「ごろつき、さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長」(「書簡」157)などと自己嫌悪の情を率直に告白したのです。
いわば、賢治の内部に巣くう「女房殺し」の犯人が「旭川の兵隊上り」の男を虚構させたといってよいのでしょう。
賢治の作品群は岩手山の安山岩の塊や柏林やスズランや山ブドウや茸と交感して「心象スケッチ」したものですが、多くは情緒的な自然観ではなく「かしはばやしの夜」の清作のように自然と葛藤する人間を主題としています。
とりわけ「柳沢体験」を源流とする作品グループは岩手山ろくというエデンの園を舞台として人間の原罪を問うている気配がします。
すなわち「旭川の兵隊上り」というアダムが、古いキノコを子供にいつわる理助、ブドウ酒を密造する耕平、さらに馬泥棒の寅松へと転生していきますが、「女房殺し」を隠喩する「旭川の兵隊上り」アダムの輪廻はいかに転生をかさねても、人間は原罪から逃れられない性であることを問うているのです。
文語詩〔そのときに酒代つくると〕は、さながら「善悪を知る樹の実」を食べエデンの園を放逐されたアダムとイヴを馬泥棒の夫と不倫の「重瞳の妻」に隠喩して、原罪(修羅)から逃れきれなかった自己を問うているかのようです。
■保坂嘉内あて賢治書簡「157」(抜粋)
「…私はいまや無職、無宿、のならずもの、たとへおやぢを温泉へ出し私は店を守るとしても、岩手県平民の籍が私にあるとしても私は実はならずもの
ごろつき さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長 ごまのはひの兄弟分、前科無数犯 弱むしのいくぢなし、ずるもの わるもの 偽善会々長
です。なにが偽善といふならばこうすれば人がどう思ふと考へる。何がさぎしと尋ねれば、きれいな面白い浮世絵をどこかで廉く買はうと考へる。その他は説明の限にあらず。
こう言う訳ですから私は著しく鈍くなり、物を言へば間違だらけ、あたまの中はボール紙の屑 実は元来あなたに御便りする資格もなくなりました。監獄ももう遠くありません。いや私は今なぜ令状が来ないか考へるのです。度々考へるのです。その来ないわけは心の罪は法律が問はず行の罪もないとは言えない。それでも気がつかないのです。…」
(ちくま文庫版『宮沢賢治全集9』より引用)
備考 この書簡の発信は大正8年秋と推定されて
きたが、保坂嘉内のスクラップの位置その
他から、大正8年7月ころの可能性も指摘
されている。
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