2005年 4月 8日 (金)        

■ 〈古文書を旅する〉57 工藤利悦 南部家と松平家を結んだ挟箱

  ■南部家の挟箱にかかる由緒

  一、南部山城守重直公は御幼名を権平様、十五歳の御時、利直公に御同道にて御上京、京都にて御元服遊ばされ御名を山城守と御改め遊ばされ、御元服御親には松平出羽守様を御頼なされ候ゆえ、これ以後御念比(懇ろ)に御座候。

  一、御家の御挟箱は越前家松平伊予守様より、御元服の御祝儀として御小袖入り御挟箱共に遣わされ候に付、直ちに御持ちなし遊ばされ候より、御旧例にて御持ちなし成され候。


 【解説】ここでは南部家と越前松平家との親交と御挟箱(おはさみばこ)についての由緒を記述している。

  利直の世子重直が、父と共に上洛したおり、重直は京都で元服した。烏帽子親を松平出羽守に依頼して執り行われたが、その時、越前福井城主松平伊豫守より小袖入りの御挟箱を贈られたというものである。

  『篤焉家訓』(とくえんかくん)にはこの一件について「御家(南部家)の御挟箱は越前家松平伊豫守(忠昌公)様より御元服御祝儀として、御時服・御小袖入り御挟箱二挺、雨皮ともに重直公へ進ぜられるるに付、直々御用い遊ばされ候より、この儀、御旧例に相成り御代々に長皮の油単(ゆたん)を御用いるなり」として越前福井藩主松平家と同じ仕様の挟箱を使用していると説いている。

  先挟箱・跡挟箱とがある中で、これは先挟箱についての説明。

  『御供連取据帳』によれば、弘化三年(一八六六年)の幕府からの問い合わせに「先挟箱は古来より丸に双鶴二所、金紋にて旧格連綿と相用い来り候処、寛文四年(一六六四年)に大膳大夫重信代(十万石が八万石となったことに伴い)自主的に遠慮して、先挟箱二挺へばかり長革懸け、天保二年(一八三一年)まで相用い来り候処、なお同年旧復の命を蒙り、爾後(じご)雨皮(赤長革覆)を取り、金紋を相顕し用い来り候」と書き上げている。

  重ねて言えば、将軍上洛のときでもあろうか。南部山城守重直は父利直とともに供奉した。その折りに京都で元服したが、越前家松平伊予守(忠昌公)にお願いして、烏帽子親になってもらった。このとき、同家より御祝儀として挟箱を贈られ、以来南部家では越前家と同じ仕様の挟箱を使用していた。

  重直は慶長十一年(一六〇六年)の生まれ。重直十五歳とあるから、元和六年(一六二〇年)に相当する。しかし、父子が一緒に上洛したのは寛永三年(一六二六年)、三代将軍徳川家光の上洛の時(『徳川実紀』)である。年代の合わない理由については判然としない。

  ちなみに、黒川盛隆著『松の下草』(「文化十四丁卯載三月二十又一日まつのや主人手記」南部叢書・第十冊)に、南部家は中絶していた越前松平家との親交を再開したいとして越前松平家へ打診したことが記載されている。

  「往古御上洛の供奉にて山城守様京都にて御元服の節、越前家御烏帽子親になされに付、御先箱の長皮を越前家より御もらひなされ、今以て御用いの御由緒等、横浜縫太を以て仰せ遣わされ候処、向様にては御控もこれ無く趣を申し来り」、しかし、実は南部家の側においても証拠立てる記録がなかったことなどから、当代の学者である温故堂(塙保己一)に故実について調査を依頼した。「謝金は七八両も懸りたり」と伝えている。

  「越前家と御親しく相成り候云々」は、既述のとおり享和三年(一八〇三年)のことである。

  ■挟箱あれこれ

  挟箱は概ね鎗を立てる格式の家より持つことができた。挟箱には片箱、対箱、先箱、跡箱等の別があり、壱個を片箱、二個ならべ持つばあいは対箱という。徒(かち)侍の先に持たすのを先箱。馬、乗物など自身の跡に持たせるものを跡箱と称した。

  将軍家では粟色塗網代の挟箱四個を供先に持たすのが例。尾紀水の三家、加賀、薩摩、仙台、越前、因州、阿州、久保田、対州、喜連川、高松、津山、明石、会津、浜田、高須、西条、守山、府中(常陸)は金紋先箱(金紋は挟箱の蓋の左右に金にて大きな紋所二個を画く。加賀の挟箱はただ中央に壱個を画き、俗に割紋という。前田家に限る)、長州(黄長革掛内金紋)、盛岡(南部家)、弘前、松江、糸魚川(以上、赤長革掛内金紋)。

  ただし、南部家は天保二年以降から許されて、赤長革掛の覆を取った。諸家によりさまざまであったが、広瀬、母里の二家は黒長革掛内金紋、松山、忍は二乗革掛内金紋、八戸家は青長革掛内金紋。

  そのほか赤長革を掛けた家には、熊本、福岡、芸州、佐賀、津、土佐、久留米、米沢、中津、郡山、高田、矢田、宍戸、富山、大聖寺、七日市、佐土原、三春、宇和島、吉田、秋月、広島新田(三万石)、徳山、長府、清末、佐伯、小城、鹿島、鳥取新田(三家)、久居、高知内分(山内氏)、亀田、米沢新田 、小幡、黒川、三日市、膳所、神戸、小倉、安志、唐津、飲肥、大洲、新谷、水口などの諸家があった。

  南部家は先挟箱二、跡挟箱二を用いたが、一ノ関、津和野、三田、綾部、高島、壬生、飯田、高鍋、足守、日出、人吉、本庄、赤穂、三日月、新見、天童、柏原、芝村、柳本、大溝、黒羽、福江、福山の諸家は対の先箱にして、彦根、井伊家および与板の坂倉家は片箱を徒の先に持たせた。

  三家をはじめ先箱の家でも、さらに乗物の跡に対箱を持たせる家もあった。南部家も先箱・跡箱ともに対箱その例である。七戸南部家および高家の横瀬氏は跡箱にして金紋を付ける。ただし七戸は金紋の上に赤長革を掛けた。

  またおおむね十万石以上の大石は挟箱のかつぎ棒に太き組紐を結ぶ。これを化粧紐という。三家・喜連川・米沢等は紫色、その他は黒または茶色を用いるのが一般であったという。

  南部家の仕様は、惣黒塗りの挟箱にして黒雨皮の二カ所へ双鶴の金紋を据え、化粧紐は紫の真糸(絹糸)(『御供連取据帳』)。越前松平家より贈られた挟箱の大きさは不明であるが、桜山神社が所蔵する南部家定紋入り挟箱の仕様は縦四二×横六〇×高さ三五センチと縦四二×横六三×高さ三八センチ(江戸博物館『参覲交代』)等が知られている。参考までに仙台伊達家旧蔵「竹に雀紋蒔絵挟箱」は縦四一・五×横六二×高さ四一センチ、伊達政宗の娘千代姫が徳川家に入輿の時の嫁入り道具である「竹に雀紋蒔絵挟箱」(国宝・徳川美術館蔵)は縦四四・四×横六〇・三×高さ三六・二センチなど、何れも大同小異である。

  ■携帯する挟箱の数

  南部家が江戸市中を通行する時に携帯する挟箱の数は前箱二、跡箱二の四つ(『御供連取据帳』)。一番挟箱には鶴紋長上下、九曜紋半上下、鶴紋熨斗目、同小袖各一、下御召、襦袢一、その他扇子や鼻紙・下帯・足袋など、二番箱には火事場羽織(胸掛・頭巾)・踏込・免利安など、三番箱には鶴紋肩衣・九曜紋小袖・鶴紋熨斗目・下御召・襦袢・袴、その他鼻紙や扇子・手拭・下帯・足袋など、四番箱には鶴紋縮緬羽織、馬乗袴・その他。ついでに蓑箱(服紗包にて)には長御合羽・腰蓑・柄袋・刀包服紗・手傘などが納められていた(『扈従衛士録』)。盛岡藩では挟箱の携帯は三百石以上の諸家に片箱を許し、八百石以上の諸家に対箱(『御舫処諸手控』)を許した。役職供立は天保九年(一八三八年)の規定では、家老は対先箱。番頭は式立には対先箱、平常は対跡箱、用人は式立には対跡箱、平常は片跡箱(『御家被仰出』)とされていた。

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