2005年 4月 15日 (金)        

■  〈古文書を旅する〉58 工藤利悦 「平大名南部家に上使派遣の破格待遇」


 ■岡野孫九郎殿上使となり御暇拝領
  寛永十年四月十五日、浅野伊左衛門殿御使いとなり、山城守様御入部御暇を拝領、同二十七日御発駕、五月八日御着城、御礼並びに御訴えのため七戸隼人まかり登る。
  同十二年四月十五日。岡野孫九郎殿上使となり御暇拝領、同二十二日御発駕、五月三日着城、北左衛門まかり登る。同十三年三月二十一日、ここ元ご出足、江戸へ四月二十三日御着き遊ばされ候所、参勤遅れ置き登り、もっとも在所に新丸石垣を築き立て候の無調法に付き、逼塞(ひっそく)仰せ付けられ、三カ年御逼塞。同十五年十二月二十二日に御免遊ばされ候。この節、御在所御馬屋(別当)志賀小左衛門が御預りし栗毛の駒に角生え申し候。御免の年故、御吉さこそと申し成し候。  (「祐清私記乾」)

  【解説】諸大名の参勤交代について、立ち入った制度の一端を示している。そのことに触れる前に、重直逼塞事件について検証を試みる。

    ■重直と参勤遅延による逼塞事件
  重直に対する見解は芳しくはないが、ここでも誤解されていることを指摘しなければならない。まず、参勤遅延の問題である。

  そもそも、幕府が諸大名の参勤時期を定めたのは寛永十二(一六三五年)年六月の法令。「毎年夏四月中参勤致すべきこと、従者の員数は近来甚だ多し。かつ国郡の費、人民の労りなり」としたのに始まる。

  重直はその月の中に帰国をしている。具体的には、法令制定後における最初の江戸への参府は、寛永十三年の四月中と(『御触書寛保集成』武家諸法度)申し渡されたことになる。この時期を誤ったことが問題視されているのである。

  翌十三年四月一日には秋田の佐竹義隆、同岩城宣隆及び播州赤穂城主松平輝興の三人が参勤、五月朔日には仙台の伊達政宗をはじめ七人が参勤している(『徳川実紀』)。

  この七人の中に南部重直の氏名は見えない。含まれているのか不明である。しかし、『祐清私記』には「四月廿三日御着遊そばされ候」、「南部家譜」は「四月十三日江府上着」とあるなど、南部家の側の記録には四月中の参勤を示す記載が残っている。いずれも日時については法令を遵守していたことを記載し、遅延したとする理由は爪の垢ほども認められない。

  『祐清私記』には「三ヶ年御逼塞、同十五年十二月廿二日に御免」と見えるが、『徳川実紀』「大猷院殿御実紀」は「十四年十二月廿二日けふ御ゆるしあり」とあって、こちらも幕府の記録に照らして符合していない。

  逼塞が解かれた時期についても一般に流布している説は明暦の振袖火事のおり、鎮火の功績によって許されたとし、ではこの話は、後世における附会の説に過ぎないのではなかろうか。

  ちなみに、逼塞とは武家に課せられた刑罰の一つで、遠慮より重く、閉門より軽い刑。建前上、門を閉ざすが、くゝり戸からの出入りは構わない。病気の際には、目立たないように親類縁者や医師の出入りは自由。

  火事の場合に、危険が迫った時には断りの上立ち退きくことは妨げない。防火には遠慮不要とするものであった。南部家歴代の藩主には一人重直に限らず、重信も利剛も逼塞となったことがある。しかし、何故か重直の例だけが大きく取り上げられているのが実状である。

  重直はたしかに逼塞の罪を蒙ったことは明らかであるが、語り伝えられている話にどれだけの史実か含まれているのか、懐疑的にならざるを得ないのが、筆者の心境である。

    ■参府・御暇上使について
  参府および御暇上使について概観する。御入部とは本来、藩主となって最初の帰国。御暇拝領とは帰国のための許可をいただくという意味。ここでの御入部は、隔年の帰国についても範ちゅうに納めているようである。

  『徳川幕府の制度』によれば「参府・御暇、国持(国主)は上使老中。溜詰参府の節上使使番、御暇は上使これなく、召状にて(江戸城に)登城の上、仰せくださる」とあり、南部家のような平大名に上使が遣わされることは異例のことであったと知られる。

  ちなみに、浅野伊左衛門殿、岡野孫九郎殿は『柳営補任』『寛政重修諸家譜』に見えないが、上使派遣が行われていたことは史実であろうから、過ぎたる処遇であったことが垣間見える。

  この後、南部家における参府および御暇上使に関する記録は途絶するが、明和三年(一七六六年)十二月、三十四代利雄が位階を四品に昇進した跡を受けて翌四年四月の帰国に際し使番による暇上使の入来が再開している。

  この時来年の参府においても使番が遣わされる旨を申し渡されている(『御世系』)。三十六代利敬が文化五年(一八〇八年)に高二十万と高直りして国持大名に列したことを契機に、翌六年暇上使は奏者番に、翌々七年以降は参府上使も奏者番と替わる。さらに同十二年(一八一五年)からは参府・暇上使ともに老中となり(『御系譜』)廃藩に及んだ。

    ■在着使者
  「五月三日着城、北左衛門罷登」(寛永十二年・一六三五年)について触れる。この文は、藩主重直が無事に在所の盛岡城に安着したことを幕府へ伝える使者として北左衛門が江戸へ向け派遣されたことを伝えている一条あるが、これも平大名は書状をもって報告をする仕来りとする中で、使者が立つ南部家の慣例は、やはり突出する処遇を受けていたものと窺われる。

  この使者を「国帰の使者」とか「在国使者」あるいは「在着使者」とも称した。幕府はこの使者を応接するのに序列があり、加賀の前田家や薩摩の嶋津家、仙台の伊達家など大大名(『柳営秘鑑』には十五家を記載)には将軍家自ら拝謁(具体的には甲乙あり)を許す。次に概ね十五万石以上の大名家には老中。十万石以上の大名には奏者番が謁する仕来りであった。

  従って通常であれば南部家は十万石の格式であり、奏者番対応の家格であるにもかかわらず老中が対応する家柄。これも破格の処遇であった。

  宝暦七年(一七五七年)三十四代利雄の時に「かたくり事件」という、南部家存亡に関する事件があった。この時の「在着使者」は者頭佐藤左治が勤め、留主居尾崎冨右衛門が同伴して登城している。しかし、前回宝暦五年(一七五五年)の登城のとき以来、幕府の対応は老中が多忙によるとの理由で、奏者番扱いを申し渡されていた。尾崎冨右衛門は、その経過を南部家の家格の低下に繋がる一大事ととらえ、これに対して苦情を申し入れると共に、強引なまでに老中対応を要望して受け入れることをしなかった(『在着使者次第』ほか)。

  老中評議の結果、殿中での秩序を乱す所業として本人はもちろん、南部家の処罰が確定しようとしたとき、老中の一人・西尾隠岐守の取り計らいで、「赤穂の浪士に勝るとも劣らない南部武士」、主家のために命を惜しまない南部家の忠臣を処罰する道理がない。むしろ褒めて遣わすべきと主張(『徳川実紀』)。

  この一件により、南部家の家格低下はくい止められ、かつ家格が再確認された事件であった。このとき、瓦版は尾崎冨右衛門の美談を書き連ね、江戸市中に舞ったと『徳川実紀』は伝えている。突出した南部家の処遇を他の大名並みに平準化しようとする幕府の意向を示した事件とされているが、重直の逼塞事件も真相の底流には「かたくり事件」と一脈通じるものを感じるのだが、いかがであろうか。



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