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下流から見る下の橋。左岸は打ちっ放しのコンクリート護岸だったが、近年、石積み風の護岸になり城下町の風情も |
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「下のはし/ちゃがちゃがうまこ見さ出はた/みんなのながさ/おどともまざり」
1917(大正6)年4月、盛岡高等農林学校3年になった宮沢賢治は、弟清六、いとこの宮沢安太郎、岩田磯吉と4人で下の橋たもと(現盛岡市大沢川原1丁目)玉井家に下宿を移した。その年に下の橋を渡る国無形民俗文化財チャグチャグ馬コと観衆を見て詠んだ4首中の1首だ。
今日の馬コは滝沢村の蒼前神社に愛馬を車で運び参詣後、盛岡八幡宮まで行進する。賢治が盛岡にいたころは近郷の馬主が馬をひき、早朝に蒼前神社に参った。賢治が見たのは参詣に行く馬。今では馬コが下の橋を渡ることはない。
下の橋は、盛岡城築城に伴い架けられた中津川三橋の一つ。奥州道中にあった上の橋は1609(慶長14)年に、城中への道に架かる中ノ橋は1611年に初めて築造された。しかし、下の橋は初築年代について諸説あるが、上の橋、中の橋以後の慶長年間に架けられたとみられる。
明治時代まで木橋はたびたび流出した。最後の落橋は大洪水に見舞われた1910(明治43)年。翌年に延長52・6メートルの新橋が架けられた。その後、改良工事で歩道と2車線車道の構造になった。95〜96年には市が大がかりな補修工事で、橋げたを車両の重量化や交通量増大に対応し強化した。
本来なら全面架け替えをしてもおかしくないが、その場合、市有形文化財青銅擬宝珠18個と木製欄干の景観が変わる可能性もある。守るには我慢も必要ということだろう。
(井上忠晴記者) |