2005年 4月 17日 (日)        

■ 〈県立博物館テーマ展「えみし」社会の誕生〉上 女鹿潤哉

     
   円筒土器[左は函館市サイベ沢遺跡出土(市立函館博物館蔵)、右は二戸市上里(うわざと)遺跡出土(県蔵)、縄文時代中期]  
   円筒土器[左は函館市サイベ沢遺跡出土(市立函館博物館蔵)、右は二戸市上里(うわざと)遺跡出土(県蔵)、縄文時代中期]  
  古代の記録によれば、およそ新潟県北部を含む東北地方北半から北海道南西部にわたる地域には、エミシ・エビスなどと呼ばれ、蝦夷などと記された人々が住んだとされる。しかし、こうしたエミシ・エビスなどの呼称・認識にせよ、蝦夷などの漢字表記にせよ、古代の倭国(わこく)や日本国側によるものであり、この地域在地の人々自身の認識に基づくものではなかった。

  本展覧会では、古代の東北北半から道南西部にわたる地域に住んだ、そうした在地の人々の主体を便宜的に「えみし」と呼ぶ。

  また、「えみし」について、単に古代史上の問題としてだけでとらえようとすると、その実像を十分に理解することはできない。というのは、古代の「えみし」社会が突如として誕生し、消滅したはずはないからである。

  本展覧会は、「えみし」社会がどのようにして誕生し、後世どのような歴史的歩みをたどるのかなどについて、紹介するものである。(県立博物館主任専門学芸員女鹿潤哉)

  ■東北北半から道南西部にわたる地域性

 古代「えみし」が住んだ東北北半から道南西部にわたる津軽海峡をはさむ地域(特にも北緯40度以北の東北北部から道南部)には、縄文時代早期後葉〜弥生時代[北海道は続縄文時代]中期末(およそ7千年〜2千年前)までの長期間、文化面で顕著な共通性が認められる。いわば、緩やかに結びついた共通文化圏とでも呼べるような、一連のまとまりを構成してきたと考えられる。
  例えば、共通文化圏では、縄文時代には早期の貝殻(かいがら)沈線文(ちんせんもん)土器の一部、トランシェ様(よう)石器、前〜中期の円筒(えんとう)土器、後期の東北北半側の十腰内式(とこしないしき)土器と道南西部を中心とする入江(いりえ)式・堂林(どうばやし)式土器などの共通性が顕著な土器、晩期の大洞(おおぼら)式土器などの土器様式をはじめとする生活用具を共有してきた。また、弥生・続縄文(ぞくじょうもん)時代前〜中期の土器、および石器などにも互いに共通性がみとめられる。
  こうした共通性は、日常の道具にとどまるものではなかった。縄文時代前期の岩偶(がんぐう)、中〜後期の青竜刀形(せいりゅうとうがた)石器、後期の土製品類、後期および晩期末〜弥生時代中期における土器や土製・石製・骨角製品などにみられるクマの意匠のように、信仰や祭祀(さいし)に伴う精神文化にかかわるものにも及んでいる。
  また、東北北半には、かつてアイヌの人々が広く住んだ北海道などと同様、アイヌ語で解釈できる地名がまとまった形でみとめられる。古代日本国が編さんした歴史書にも、「えみし」が住んだ地域に同様の地名がいくつも記録されており、そのうちのいくつかは現存している。
  しかも、「えみし」社会のことばは、通訳が必要なほど、古代の日本語とは大きく異なっていたとも記されている。すると、「えみし」は、元来、今日のアイヌ語に極めて近い言葉を用いており、こうした地名は「アイヌ語系の言葉」に由来する地名だったことになる。
  共通文化圏は、古代「えみし」が住んだ地域とほぼ重なっている。こうしたことなどをも考えあわせると、古代「えみし」社会が誕生する以前の共通文化圏でも、アイヌ語系の言葉が用いられていた可能性が高いと考える。
  土器を始めとする文化の顕著な共通性の背景には、世界の諸民族の事例から、次のことが指摘されている。すなわち、一連の交易圏(それは新潟県糸魚川(いといがわ)産のひすいの分布状況などからもうかがえる)・通婚(つうこん)圏(ろくろを用いる以前の土器は、女性が作る場合が多いとされる)の形成、相通じることばの共有である。
  こうした縄文時代以来の地域性、すなわち共通文化圏は、類似した自然環境のもとに、同じような生活を営み、互いに近い価値観をもつ社会を基礎とするものであったと考える。それは、古代の「えみし」社会誕生へと連なる性格をもつものであったと解釈できる。

 ■共通文化圏の解体と拡大文化圏
     
   後北C2・D式土器[左は青森県東通村大平(おおたい)貝塚出土(同教委蔵)、右は軽米町(かるまいまち)大日向U(おおひなたに)遺跡出土(県蔵)、4世紀]  
   後北C2・D式土器[左は青森県東通村大平(おおたい)貝塚出土(同教委蔵)、右は軽米町(かるまいまち)大日向U(おおひなたに)遺跡出土(県蔵)、4世紀]  

 弥生時代後期(およそ2千〜1700年前)には、東北地方全域に天王山(てんのうやま)式土器を用いる文化(以下、天王山文化のように表記する)が広がり、それまで東北地方の各地にみられた、いくつかの地域的な特色が失われる傾向を示す。

  一方、北海道側でも、これにやや遅れて、道央部を中心として用いられていた後北(こうほく)式と呼ばれる土器を用いる文化が全道に広がる。それは、後北C1式土器の後半期(2世紀後半)ごろから劇的に進行し、それに続く後北C2・D式土器は、ほぼ全道にわたって展開する。

  こうして、かつて共通文化圏を構成してきた東北北半と道南西部とは、ともに地域的特色を失う。先に述べた東北北半から道南西部にわたったクマに対する共通の祭祀(さいし)に伴うとみられるクマを意匠した造形が消滅するのも、その一例と考える。  

  こうした状況から、天王山文化や後北文化には、従来の東北地方と北海道のそれぞれにみとめられた小規模な地域的な諸文化を一つの大きな文化圏に再編するような性格がひそんでいたようにみえる。こうして、縄文時代以来の伝統的な共通文化圏は解体すると考える。

  全道を一つの文化圏に均質化した後北C2・D式土器は、さらに樺太(サハリン)南部や千島列島南域へも展開する。そして、4世紀前半には東北北半などに広範に出現しはじめ、あたかも、北海道を中心とする南北地域は、より大きな文化圏(本展覧会では、拡大文化圏と呼ぶ)にまとまるかのような状況を示す。

  しかも、それには黒曜石製の石器や楕円形に掘り下げた墓をはじめとして、北海道に起源をもつ文化の諸要素が伴う。

  こうした状況は、東北北半が全道の文化統合によって成立する拡大文化圏の南域へと参入しようとする指向性を示すかのようにもみえる。

  こうした一連の動きを引き起こした要因は、次回に述べるように、弥生時代後期を通じて起こった西日本を中心とする倭人社会の政治的統合、古代国家倭国の誕生に伴う激動があったと考える。

  5〜6世紀に至っても、東北北半には後北C2・D式土器に後続する北大T式土器をはじめとする北海道に起源をもつ文化の諸要素が継続的に確認される。さらに津軽海峡を挟む共通性は7〜8世紀を通じても認められるのである。



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