2005年 4月 18日 (月)        

■  〈県立博物館テーマ展「えみし」社会の誕生〉中 女鹿潤哉

     
  「えみし」社会の土器[左=鋸歯状沈線・盛岡市台太郎(だいたろう)遺跡出土(県蔵)、右=幾重もの横走沈線・北上市五条丸(ごじょうまる)古墳群出土(同教委蔵)、7〜8世紀]  
  「えみし」社会の土器[左=鋸歯状沈線・盛岡市台太郎(だいたろう)遺跡出土(県蔵)、右=幾重もの横走沈線・北上市五条丸(ごじょうまる)古墳群出土(同教委蔵)、7〜8世紀]  
 

 古代のわが国は、前半と後半とに分けることができる。前半は、古墳時代〜飛鳥(あすか)時代前半(4世紀〜7世紀後半)の倭国(いわゆるヤマト政権)である。また、後半が飛鳥時代後半に中国唐(とう)の体制を導入して誕生し、平安時代中期末まで存続する律令(りつりょう)国家としての日本国(7世紀後半〜9世紀末)である。

  倭国と日本国とでは、「えみし」に対する呼称や認識、漢字による表記が異なっていたと考えられる。今日では、古代の蝦夷は一般にエミシと読み、蝦夷とされた人々についてもエミシと呼んでいる場合が多い。

  しかし、日本国では、蝦夷はほぼエビスと読まれている。エビスは、元来野蛮な異民族を意味する差別認識に基づく呼称で、律令国家日本国の中華意識と結びついていたと考える。

  これに対して、古代の倭国・日本国の男子には、エミシの名(ほとんどが毛人と表記される)をもつものが少なくない。エミシは、元来差別認識に基づく言葉ではなかったと考えられる。エミシは、倭国で用いられた勇猛な敵に対する呼称であったとする指摘もある。

     
  蕨手刀[八戸市丹後平(たんごたい)古墳群出土(同教委蔵)、7世紀後半]と錫(すず)製腕輪[金ヶ崎町西根古墳群出土(水沢市埋蔵文化財調査センター蔵、8世紀)]  
 
蕨手刀[八戸市丹後平(たんごたい)古墳群出土(同教委蔵)、7世紀後半]と錫(すず)製腕輪[金ヶ崎町西根古墳群出土(水沢市埋蔵文化財調査センター蔵、8世紀)]
 



  「えみし」社会について、倭国・日本国側が実際の見聞に基づいて記録(実録)を残すのは、7世紀半ばのころとされる。それは、倭国時代末のことで、『日本書紀』などから知ることができる。それ以前の蝦夷についての記録は、後世の実録や明らかな作り話のほか、「えみし」ではなく倭国に抵抗する東日本の人々についての記録に基づくと考えられるものさえある。

  その後、7世紀後半以降の日本国の記録は、「えみし」社会に対する差別に基づく偏見を含みながらも、実録的なものとなる。こうして、エビスならびに蝦夷は、「えみし」に限定されると考えられる。それはまた、日本国側の認識として「えみし」を一連のものとしてとらえたことを意味している。

■8世紀 方形の竪穴住居で農耕
  7〜8世紀の東北北半「えみし」社会では、カマドをもつ方形の竪穴住居に住み、ケズリやミガキを多用する土器(土師器=はじき)を用い、稲作や畑作による農耕が行われていた。稲作を除く、こうした生活様式や文化が道南西部(渡(わたりの)島)「えみし」社会に受容され、擦文(さつもん)土器を用いる擦文文化が成立する。

  擦文文化の中心である道央部には、東北北半と同様、在地「えみし」の家父長たちを葬った群集墳(ぐんしゅうふん)が造営される。また、群集墳などからは、倭国・日本国側に起源をもち、東北北半「えみし」社会で発達した蕨手刀(わらびてとう)がみとめられる。

  一方、東北北半の群集墳にも、道央を中心とする擦文文化からもたらされた大陸起源の原石を用いた錫(すず)製装身具を副葬する例もみられる。こうした相通じる文化や価値観を共有する絆(きずな)を「えみし」社会と呼ぶことができる。

  こうした絆は、前回述べた北海道に起源をもつ後北(こうほく)C2・D式土器とそれに伴う文化の東北北半への広がりに始まると考えられる。また、古代「えみし」社会は、拡大文化圏の南半を構成したとみなすこともできる。すると、「えみし」社会は、東北北半が道南西部とともに、拡大文化圏南半に組み込まれた時点で成立したと解釈できる。

  「えみし」社会の成立期は、後北(こうほく)C2・D式土器などの北海道起源の土器と東北地方側の土器との相互の関係から、4世紀前半を中心とする時期と考えられる。

■倭国−北へ勢力伸ばす倭人社会
 西日本を中心とする倭人社会は、弥生時代後期に入るころ(1世紀後半)には、政治的統合が急激に進んでいた。その動きは、3世紀前半には現在の奈良盆地を中心とするヤマトを拠点とする邪馬台国(やまたいこく)を中心としてさらに加速する。

  邪馬台国を盟主(めいしゅ)とする連合体は、3世紀後半を通じて東北南半以南の東日本をも取り込み、4世紀初頭には古代国家としての倭国が成立する。こうして、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の造営に象徴される古墳社会が誕生する。

  こうした倭国成立へと至る社会的な緊張が、道央の後北文化を中核として拡大文化圏を成立させた主な要因だったと考える。

  倭国は、古墳の造営にみるように大王(おおきみ)を頂点とし、各地の王(きみ)がこれに従う階級社会であった。そうした倭国を構成する王たちは、時期的な消長はあるものの、古墳の展開状況などから、4〜5世紀を通じて福島県域や山形県米沢盆地、宮城県仙台平野ならびにその北の大崎平野にまで出現したと考えられる。
 
  そして、その一波は、5世紀後半には岩手県南部の胆沢扇状地などにも及び、水沢市中半入(なかはんにゅう)・面塚(おもてづか)などの集落遺跡が営まれる。そして、最北の前方後円墳である胆沢町角塚(つのづか)古墳の造営へと至る。しかし、6世紀には、角塚古墳を生み出した胆沢扇状地の倭国側の集落は姿を消し、倭国の勢力は、南に後退すると考えられる。

■日本国−交流と対立の中で成熟
  7世紀後半には、倭国は律令国家日本国へと変貌(へんぼう)する。そして、8世紀にはいると、日本国側は「えみし」社会への進出を一層強め、在地「えみし」社会との間に厳しい緊張を招く。その一方で、「えみし」社会もまた、当時の集落増加が物語るように、日本国との交流と対立の中で成熟期を迎える。

  日本国は、「えみし」社会を併合するために懐柔(かいじゅう)と分断、軍事行動(いわゆる征夷(せいい))を展開する。日本国は、拠点に政治的・軍事的な機能をあわせもつ城柵(じょうさく)を造営し、和人農民(柵戸(さくこ))を移住させるなどして、郡を設置して、「えみし」社会を日本国の領域に組み込んでいった。

  7世紀後半から8世紀を中心とする時期、東北北半には、「えみし」の家父長たちを埋葬したとみられる群集墳が造営される。その副葬品であるガラスなどの玉類、和同開珎(わどうかいちん)、鉄製の農具や武具、馬具類などは、「えみし」社会と日本国との交流と抗争を雄弁に物語る。

  日本国は、服属した「えみし」を俘囚(ふしゅう)などとして位置付け、日本国の記録によれば、「えみし」の有力者に位階(いかい)が与えたとされる。群集墳などから出土する帯金具(おびかなぐ)や石帯(せきたい)は、日本国の役人が帯飾りとして用いたもので、こうした記録を裏付ける資料となる。

  その後、東北北半「えみし」社会は、9世紀を通じて内部からの公民化要求の高まりなどから、和人化・日本国化が急速に進んでいく。(県立博物館主任専門学芸員女鹿潤哉)

岩手県立博物館平成16年度テーマ展
  『えみし』社会の誕生
  会期 開催中〜5月5日(木・祝)
  会場 岩手県立博物館特別展示室


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