■ 〈古文書を旅する〉61 工藤利悦 船越兄弟事件の真相とは
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■舟赳与兵衛が谷村惣兵衛を打ちたること
一、舟赳与兵衛が谷村惣兵衛を打ち、他国へ立ち除きけるは寛文元年(一六六一年)。舟越与五郎御小納戸を相勤めまかり在り候処、重直様の御不審を得て知行二百五十石を御取り上げられ浪人となり候処、ことのほか不勝手に相成り、代々持ち来り候鎗(やり)を寺町の研屋松之助を頼み、谷村惣兵衞へ金子一歩半に払い(売却)候を与兵衛が聞き、早速松之助を呼び、右の鎗は古大膳大夫様(信直のこと)より先祖拝領の鎗なり、与五郎儀若年故に左様の弁なく払い候間、代銭は我ら返進申すべく候間、惣兵衛より取り返しくれ候えと頼みければ、松之助なるほど心得候とて、右の段惣兵衛に申し談じければ、安き御事にて候、右の訳これ有り鎗に候得ば、返進申すべく由あいさつに及び申し候処、一両日も過けるも沙汰これ無く、その後御城にて惣兵衛と出会い申す所に、先日はたびたび鎗の儀仰せ下され候えども、命は進ぜ候とも鎗は進ぜる儀なるまじく候、御命申し受け候とあいさつに及び候に、同三年(一六六三年)九月二十一日の夜五ツ(午後八時)過ぎ、三戸町村瀬又右衛門屋敷の前にて惣兵衞を討ち留め、仁王町へ出て奥瀬伊左御門下の川原を越え、大澤川原へ出て厨川大道、雫石橋場御番所へまかり越しける、近日御馬買衆御着に付き、国見峠道の見分を仰せ付けられまかり越し候由と相断り御番所をまかり通り、秋田へまかり越し候、妻子は兼てその年の内八月の内に矢崎と申す処へまかり越し申たく候由を願い上げたてまつり候処に、御いとま拝領を仰せ付けられまかり越し候由に御座候。(「祐清私記乾」)
註 この記録は寛保年間、大膳大夫信直の五世の孫、大膳大夫利視代に纏められているので、信直を古大膳大夫としている。
【解説】ここに紹介する説話は、御小納戸役(おこなんどやく)船越与五郎が藩主重直のおぼえが悪く、家名断絶となるところから始まる。
『祐清私記』や『参考諸家系図』(与五右衛門貞長に作る)は寛文元年のこととするが、正史(『雑書』)は寛文二年正月十九日、船越与五郎御納戸役仕候所に不作法者に付、知行召し上げられる云々と伝える。
浪人となった与五郎は、生計に事欠く状況に立ち行き、先祖伝来の鎗を研ぎ師を介して目付谷村惣兵衛(家禄二百石)に売却した。しかし、この鎗は信直公より拝領した船越家の家宝。与五郎の兄あるいは父与兵衛(家禄二百石)は、鎗売却の話を聞き、谷村に買い戻すための交渉を図る。与兵衛は谷村の命と引き換えと言われて殺意を抱く。
さして問題とすべき事柄でもないが、船越与五郎と与兵衛の関係。与兵衛を兄とする兄弟説(『篤焉家訓』『参考諸家系図』など)があり、また、父とする親子説(『奥南盛風記』『奥南旧指録』)が知られている。
ただし、与五郎は与兵衛と生計を別にしていることを伝え(『祐清私記』など)、また、元文三年(一七三八年)に伊藤祐清等がまとめた『系胤譜考』船越系図は与兵衛宣貞の末裔源内貞安が藩へ書き上げたものだが、これらに従えば兄弟説が至当であろう。
蛇足ながら、『参考諸家系図』の与五郎譜には、兄弟の本家筋船越清太夫家(家禄二百二十七石)の養子になったとあるが、同系図及び『系胤譜考』からは清太夫家系図上に確認することはできないなど、つじつまの合わないことはあるが割愛する。
ともかく、船越兄弟による谷村惣兵衛殺害があった。『祐清私記』や『参考諸家系図』は寛文三年(一六六三年)九月二十一日之夜五ツ(午後八時)過ぎとあるが、先の関連から同二年九月二十一日(『雑書』)の誤伝といえよう。船越兄弟は直ちに秋田領へ出奔したという。この時、『奥南盛風記』によれば、途中、領境橋場の番所を通過する時、番人のはなむけを受けて出奔したとしている。
橋場の関所にて与兵衛言いけるは、意趣ありて谷村を討ち御領内を立ち退き候、武士の情は互いのこと、この所を通じたまわれと言う。細越与左衛門(番人)がおりけるは、これを聞きて健気なる御働きかな、苦しからず候、御通りたまえと、去りながら我は当番にてここを素直には通さぬ大法なればとて、鉄炮を与兵衛が通りし跡から三度まで打ちけるとなりとする『奥南旧指録』の説もある。
この話がここで終われば単なる殺人事件に関する話。理解に苦しむ話だが、はなむけの言葉を贈って藩外へ送り出す人物もおったという、紹介するに値しない、まったく無意味な話である。だが、実は後日談があり、とんでもない話が潜んでいたのである。
■残る3通の書状が物語る
時は寛文七年まで下る。『雑書』同年十二月二十九日の条に「大浦治郎右衛門に弐百石これ下され、御切米を下さる」と見える。
大浦治郎右衛門はかつて谷村惣兵衛を殺害して秋田領へ出奔した船越与兵衛宣貞その人。『参考諸家系図』によれば、寛文五年八戸侯直房君の召によって八戸に帰る。同七年十二月また命によって盛岡に帰るに符合する。
現在盛岡市中央公民館が所蔵する『船越家文書』の中に、七戸八内行信(のちの三十代信濃守行信)状及び南部左衛門佐直房(八戸初代藩主)状が含まれている。
・南部行信書状
(前略)今度山城守(重直)殿死去、拙者ども心体御推量給うべく候 御牢人以後も書状をもって申し入れ候えども、御住居然々と存ぜず候間、音(信)無く本意に背き存じ候 定めて御無事に御座あるべく候へども、御物ごと御不自由なりと察し申す御事に御座候、(中略)一度御対面申したくと朝夕願いまかり在り候、恐惶謹言(きょうこうきんげん)、猶々隼人方(行信の父、二十九代重信)、山城守殿(重直)へ中気(病名・中風)と承り、取り合えず(江戸へ)まかり登り候、道中にて死骸に合い申し候、それより江戸へ直々まかり通り候ところに、稲葉美濃守殿(幕府老中)御申し候は、一門ども相詰めず候とも名跡の儀は相違なく仰せ付けらるべく候間、早々まかり下り候得と御内意にて、近々下着つかまつるべくと相待ちまかり在り御事に候、(中略)面談をこうむり積ることども、申し承りたく存じ御事ばかりに候以上
十月十二日 七戸八内行信 花押
大浦治右衛門殿
御同姓治兵衛殿御報
〈註 幕府からの書状は忌明けを期して到来した〉
・南部行信書状
(前略)委細御申し越され忝じけなく存じ候(中略)御ろう人不志う(不自由)に御入り有るべくと金子少し進ぜ候 まことにかんなん(艱難)すいりやう(推量)申し候 もしもし大膳殿に申しよく成るべくは、来々は此方へ御越し候様につかまつりたくと日本の神々へねがいよくあり候、何も委(くわしく)は重ねて恐惶謹言
三月十六日 八内行信 花押
大浦治右衛門殿
同庄之助殿
参る
・南部直房書状
(前略)私儀今度召し出され、山城守(重直)跡式の内弐万石を拝領いたし重畳ありがたき仕合に存じ奉り候、随て貴殿事唯今時分、何方へも身代の取り組み候哉、もし左様もこれ無く未だ牢人にて手前不自由に候はば、我等在所の内へ先ず早々参らるべく候 (盛岡は)生国の儀に候間、帰参の望も候はば 以来はともかく同名大膳(盛岡藩主重信)方へ我等根本(根回し)いたし帰参めされ候様に仕るべく候 これ少しに候へどもこの使に金子少々越し申し候 我等在所は南部の内八戸にて候、委しくはこの使の者にロ上に申し付け候恐々謹言
三月五日 南部左衛門佐直房(重判)
大浦治右衛門殿参
この三通の書状が語るところは二点である。
船越兄弟は譜代の士、谷村は重直によって江戸で召し抱えられた新参の士である。実は、船越氏の伝える鎗の一件は、煎じ詰めれば矛盾に充ちた話。話のつまに過ぎない。前回に紹介した塩川と原兄弟の対立に通じる譜代新参の対立構造の中で生じた事件である。
第二は行信および直房の使者が福島まで帰参のために旅費及び生計費を届けている。殺人を犯して脱藩した人物に対する行為としては到底考えがたい行動。しかも、その行為は新藩主の世子行信と八戸藩主直房であることに底知れない歴史の深淵を知る。
この事件は単なる殺人事件ではなかったとするゆえんである。それなれば『奥南盛風記』のいうところもうなずける。
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