2005年 5月 12日 (木) 

       

■ 〈オークランドの旅人〜賢治と滝沢村〉135 岡澤敏男 クロモジのいいにおい

 ■クロモジのいい匂い
  大正5年6月24日秋田県河辺郡船岡村における税務署官吏に対する流血の襲撃は「猫ノ沢事件」として世間を騒がしました。

  明治30年代に千葉県の酒造家で税務属2名が惨殺され、その死体が山林に埋められた事件以来の大惨事だったといいます。この「猫ノ沢事件」は所轄の秋田税務署課長他部下7名(内2名は一関・水沢出身の県人)が、密造酒摘発のため船岡村を臨検した際に遭遇したものです。

  4名の負傷者に県人の切田、庄司税務属の名があり、しかも凶器のなたで腕を割られかまに突き刺されて重傷を負ったというので、県民も無関心ではなかったのでしょう。

  この事件は賢治が盛岡高農2年生のときに発生したものでしたが、童話「税務署長の冒険」第4章にその片鱗をのぞかせています。

  税務署長は変装して組合の密造所(椎茸山)にもぐり込んだものの、たちまち組合員に捕まり松の木につるされ、証拠隠滅のため樺花の炭窯で消されそうになります。

  「さあ、おれを殺すなら殺せ、官吏が公務のために倒れることは本望だ」と署長はつるされながら見栄をきるのです。現存する草稿第一葉の欄外に「かかとに脉(みゃく)ある村人気質を、軽いユーモア加へて書く」とあるように、この童話は密造酒摘発をめぐる村落共同体と税務官吏との抗争を実にユーモラスにパロディー化しました。

  国税のため農民から濁酒自醸の慣習を奪って摘発する署長も、大掛かりな設備でイーハトヴ密造会社を組織する名誉村長も痛烈な風刺にさられているのです。

  第5章の後段は監禁中の署長が解放され、組合員たちが捕縛されてイーハトヴ密造会社の工場からぞろぞろ出て行くところで、ふと風がはこぶクロモジのかおりに署長が「あゝいゝ匂(におい)だな」と言うと、縄をかけられた名誉村長も「いい匂ですな」とあいづちを打つ場面が結びにみられます。

  これは酒税という魔物に踊らされていた署長と名誉村長の人間性が、クロモジのいい匂いに誘われ自然との調和をとり戻す瞬間を描いています。こうした自然啓示の思想が、晩年の文語詩稿〔かれ草の雪とけたれば〕の結びにも反映しています。

  早春の一本木原でしょうか、「かれ草の雪とけたれば/裾野はゆめのごとくなり」、濁酒摘発に街道を急ぐ税務吏も、クロモジのいい匂いにさそわれた署長のように、ついうっとりとなって自然との調和をとり戻すのです。

 ■童話「税務署長の冒険」より抜粋
「樽にみんな封印しろ。証拠品は小さな器具だけ、集めろ。その乳酸菌の培養も。うん。よろしい。いやどうもご苦労をねがひました。」署長は巡査部長に挨拶しました。

「お変わりなくて結構です。いや本署でも大へん心配いたしました。おい。みんな外へ引っぱれ。」

  そしてもうぞろぞろみんなはイーハトヴ密造会社の工場を出たのだ。五分ののちこの変な行列があの番所の少し向ふを通っていた。

署長は名誉村長とならんで歩いていた。

「今日は何日だ。」署長はふっとうしろを向いてシラトリ属にきいた。

「五日です。」

「あゝもうあの日から四日たってるなあ。ちょっとの間に木の芽が大きくなった。」

  署長はそらを見あげた。春らしいしめった白い雲が丘の山からぼおっと出て、くろもじのにおひが風にふうっと漂って来た。

「あゝいゝ匂(にほひ)だな。」署長が言った。

「いゝ匂ですな。」名誉村長が言った。


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